かにさん記録 blog

日々の思うこと、好きなこと、考えの整理!

ウルウルの正体

やっと週末なのに、通常モードに戻って慣れないうちにまた振り出し、みたいな状態。一旦仕切り直してまた来週から。

 

最近体やお肌や色々なところが鍛えて&ケアいないから衰えたな…と感じることも多いのですが、やたらと涙腺も弱くなっていて、前はこんなことで泣かなかったのに…ということにも、気づけばウルウルしていて、日々浄化されている気分です。

昨日も、バラエティ番組で『もしも娘が失恋したら父親はどんな声をかけるか?』のような内容のことをやっていたのですが、娘を思うお父さんの不器用ながら暖かい一言や、相手と人と自分のことをどう考えるかということを、真剣に真摯な気持ちで伝えている場面があって、自分のことでもないのにグズグズ…。

人の事は見て、なんていいお父さんなんだ…とか、愛されてるなぁ…いい親子!!とか、鑑賞対象としてだから思うのかその暖かさにじんわりしみじみしてしまうのですが…。自分の事となると、どうもそう思えなくて、同じように大事にされている感覚はあるはずなのに全然素直に受け取れず、寧ろ、本当にいいのかな〜…私はめっちゃ楽だけどそうさせるのは悪いな〜って思うのと同時に、もう少しフラットでいてくれていいのに…オカンとオトンの感覚足して2で割ったらちょうど良くない?なんて、思う自分もいて複雑です。両方が違いすぎて迷うことも多いというか、使い分けがとっても必要。

テレビの話で言うと、人の事を見ているときは客観的なのだけれど、ブワッと感情がわいて泣く、とか胸いっぱいになる、といったことが出来る分、こっちの方が何となく有り難い気持ちになってしまっているようで、直接関わる人にされている色んなことを受け取れていないって相当に薄情なんだな、私。とも思うのです。感謝してないわけではないのだけれど、多分、親が感謝してほしいように気持ちを受け取れない、私が感謝できていない?から、すれ違っちゃうし、ものの受け取り方も違うからイザコザも起こりやすくなるんだと思うのです。でも、今の私にはもう精一杯やっているつもりだけれど、考えが足りない!と言われ、期待値に届いていないことに、そんなこと言われても…って反論したくなったり、またダメって言われた…確かに言われ続けてきたことはこういうことではなかったのか、私はそれを理解できていなかったと落ち込む。そして、私自身を理解されていないことにも悲しくなるし思わずイラつく。なので、向こうを失望させず、お互いに穏やかにいられるように、触れないようにしようとするので余計に距離も遠のいてしまう、といった感じです。本当は良くない。そうなの。

テレビでふとした言葉に涙腺が思わず反応するのは、少なくともそれに対しては同調しているところがとても大きいからなのだなぁ思う。ガルガルしている時って、素直さは欠けてしまうから聞き入れられないことも多いのかもしれないけれど。

あとは、私があれこれ言われている時って、寄り添われている感覚が薄いから?と、今思いました。言いたいことはわかる、だけどこちらの本当の言いたいことは伝わってない微妙にズレている感じ。

伝えてきたはずなのに、本当の意味を分かっていなかった!って言われると、こちらもどうしたもんか、申し訳ありません…でも私はあなたとは違う人間なので、丸っきり同じ過程を踏んで理解しているとは思わないでください、って最近思えるようになりました。それは私からの発信でも同じ事で。気づかないよりはマシといえど遅いですが。

親の全部に応えられない自分がどれだけおかしいんだろう?と思っていましたが、全く別の人生を歩む、人格の違う、私をぴったり同じ感覚のレールに乗せられようとしていたから、自分の見聞きすることや経験、環境、私の性質のベースにどこか合わなくて無理していたところがあったんだなぁ、という理解を今のところはしています。この考えや感覚が、この先変わるかもしれないし変わらないかもしれないし、それはわかりませんが。若しかしたら、言われていた事に反抗的になっていただけかもしれない。ただのイタイ奴かもしれないし。

 

だいぶ話は脱線しましたが!私にとって、悩む事や考える事が多いのは仕事や、今後の事も確かですが、家族の事って大きいです。クリアできていない事も多い。結局、家族と言っても個性のある全く違う人間だという前提で付き合わなくてはならない、ということをとても意識して付き合わなくてはならない人たちですね。一まとまりって難しくて、個性的な1チームと思うように考えようと、少しずつ思い始めたところです。

繰り返しのようで新しい日々

昨日の給湯器の故障は、なんてことはない、安全装置が作動したとのことで、解決しました。何故そういうことになったのは不明…。ともかく、あったかいお風呂に入ることがなんて有り難いんだ〜と、ホカホカで幸せな今宵。お湯に浸かれるって本当にリラックスできて、贅沢な使い方だなぁとホカホカしつつ感じていました。

 

今日から仕事が少し普通、に戻りましたが、今までの仕事の勘のようなものが鈍っていないか、心配になりました。動き回っているうちにあっという間に時間は過ぎ、気がつけば定時。今日、大丈夫だったかな、と振り返るのにもなかなか体力を使う時間でした。最近新たに組み始めたチームの中では、ひとつひとつ確認をしながら仕事を進めようね、と言葉にはしませんがお互いの行動や声がけにそれが表れていたようで嬉しかったです。まだ余裕がある中なので、出来るうちに色々と実践しつつ、チームの中で色々と話したいなぁと思います。

私自身が分からないことや見えていないことも多いので、色々と教えてもらいつつ、修正できそうなところは修正していきたい。悪しき、とはいいませんが『それはそうやっていて意味があるの…?』という端から見ていて理由のないように思うことや、無駄になっていそうなこと、必要でないことの見直しと、今のチームの環境や、受取り手のニーズにマッチした方法を、他のメンバーともガサゴソ変化への手探りをし始めたところです。

変えることって勇気がいるし、そのままやっていた方が無難に違いない。大きな事故や失敗にはならない。だけれどもそれは停滞してしまうことで、同時に衰退していくことだとも思うので、ひとつの場所に染まらず、色々な角度から物事を見られる自分でいられることで少しずつ良いように進化できるのではないかしら。

見極めは必要だけれど、変わることって楽しいし、新しい何かを生み出せることにまた喜びを感じたり、受取り手からの反応も楽しみで、それが自分が次に動くための報酬なんかにもなる。

周りに何があるのかな、といつもと同じ道を、いつもと違う目とアンテナで日々キャッチできたら…いいなぁ、という理想とたまの実践でそう思うのです。

 

暖かい日が続いて、今日も夜も着込まずにいても寒さをそれほど感じないな〜と思っていたら、桜の開花予想が出されたとのことで、春を感じる便り。鎌倉の植物園では品種によっては既に咲いているものもあるとか。葉と花が一緒に開く桜しか見たことがなく、桜色で空が埋まるという景色は見たことが無いので、いつか是非とも見てみたいものです。桜の綺麗なところへ旅行に行きたい…まずは旅費を貯めましょう。

必要さと時間をかけること

原因不明ですが、給湯器が点火しなくなりました。冬なのに。

ケトルでお湯を沸かして洗い物と洗面は出来たのですが、まぁ〜時間のかかること…。思わぬフル稼働で今度はケトルが壊れないか心配です。そうなったら電子レンジとお鍋でお湯を沸かして温めるので、さらに時間がかかることに…!

でも、いつもより時間をかかって家事や普段やることを済ませている感覚のはずなのに、意外にというか、思ったよりも時間が経っていない。

不思議なことにその手間や時間をかけた分、いくらかの充実感もついてくるということが起こりました。

珍しくテレビは消してCDを流していたせいもあるかもしれませんが、忙しなさを感じなかった感覚。

 

Piano LoveII

Piano LoveII

 

今日聞いていたCD。大井さん、オススメです!私はオペラユニットlegendが入り口で、その専属ピアニストとして大井さんを知りました。最近のXperiaのCM曲の人ですよ。相方の中村さんとコンビの『鍵盤男子』も素敵ですよ。『legend』も素敵ですよ。

 

脱線しましたが。

一番のツイていなかったポイントは、お風呂のお湯が張れていなかったこと…。なので、沸かしたお湯でホカホカタオルで体を拭いてお風呂代わり、みたいなことで済ませてしまっちゃったりもして、もうこれは明日汗をかく仕事やったらおしまいだー!給湯器の話題なんて絶対言えぬ!うわーん!!!状態でした。

が、あれ、やってみたらホカホカタオルかなり気持ち良いぞ。と、思わぬ収穫。これ触り心地の良いタオルだったらなおさら最高だったかも…と、思いながらふきふき。足の甲や指もホカホカふきふき。一番やっていて心地よかった部分でした。普段キチンと触れなかったり、向き合うことの少ない体の部位って自分なのに改めて触れると、色々な発見をするものですね。なんだか言いようのない嬉しさというかラッキーな気分になりました。

 

お湯をザバザバ当たり前のように使い、体を温めてきたし、何の苦もなく食器を洗ってきましたが、こうしてみて、物の有り難さ改めて実感しています。文明の利器ってすばらしい…。

そして、普段ボタンひとつで済ませられているお風呂のお湯張り、食器洗いのためにお湯を使うことが、すぐにできない時に必要な、自力で何とかしようと模索する、または普段とは違う方法で解決する『時間』というもの。便利なものを使うことで、ボタンひとつで済ませられる分、空いた時間を私は楽に過ごせて、他のことをする時間にあてることができるありがたーい生活でした、昨日までは。さて、その空いたはずの時間を何に使ってこられたのか?無駄すぎくらい無駄に過ごしてきたんじゃないか?とも感じました。私の場合、それに通ずることが多すぎてどれだけダラけた生活なんだろう…と気づくたびに、普段したいと思うことこれでいくらでもできるんじゃないの?早く寝られるし電気代もかからないよ?と諌めています…。

普段より時間のかかる方法で取り組む方が、時間はかかるけれど、余裕がないとできないことだったり、段取りが必要だったりする。組むスケジュールも、数は少なくなるかもしれないけれど、最低限に必要なことだ、確実にこなせる分だけに厳選されるのかもしれない。よりスマートになるのかもしれない。シンプルにすれば、した分の余裕はできて、自分の生活が見渡せるようにもなるのかもしれない。と、感じました。やることが多いというよりは、無駄な動きや無駄に過ごす時間が多くて!増えるばかりで厳選されていないから、短縮されたりよりスピード早くできるものが嬉しい!重宝する!という生活になってしまうのかもしれない、私の場合は。

本当に大事なことって、そんなにたくさんはないのかもしれないけれど、気づかないうちに欲張りになって、色々と抱え込んで持ちすぎなのかもしれないですね。

なんてことを、感じました。

…とは言いますが、とりあえず明日電話して、早急にガス屋さんに来ていただきたい…!でも、少し生活の中の持ち込み過ぎたものを整頓するいい機会かもしれないので、改めて生活整頓してみようと思いますよ。

私が書く意味を考えてみた

昨日のまなつさんに続き、はせおやさいさんにも『自分のためにしてあげる』でブックマークと一言いただいたので、2日連続のイベントにびっくり&嬉しい気分です。自分の発信した事にそうだね!って言っていただけることは単純に嬉しい!!!!!

人って見られていると思うと、頑張ろうという気になりますね、1人で黙々とやっているのも勿論嫌いではないですが、やっぱりね!気が引き締まりますね。

 

常に繋がれる世界に生きている事に、ウンザリしつつ、それに囚われている自分って依存傾向強くない…?まずくない…?と思いながら、たびたび救われていることも事実な日々。

ネットの世界って、普段過ごす生活と同じ環境下の情報しか取り入れない!と思えばそれもできるし、その名の通りサーフィンすれば世界中の縁のあるものや人や文献や思想に出会えるし、この世の辞書にだってなるし、使い方によって得られる量も質の高低も果てしないものだなと、最近ひしひしと感じています。

それから、本や文献にまでならなくても、色々な人の考えに出会えるブログというツールが、今まで以上に面白く、色々な意味で、色んな人がいるもんだな…!と感じたり、私だけ?と思っている事に同意してもらえたり、自分と似たような事を書いてあることでほんの少し勇気をもらえたり。

周りに味方がいなくても、誰かが自分を見てくれているかもしれないことって、ネットの怖さでもあり、けれど救いでもあるのかなぁと思ったりします。あまりよろしくない監視系、張り付きの話でのイザコザも勿論あって、悪い面が取り沙汰されてもいるけれど。どこか遠くにいる顔も知らない誰かに応援されたり気にかけてもらえたりするって嬉しいものだし、素直にその言葉が入って来るようにも思うんです。

私の場合は、日々やってきたことや気持ちや考えの整理もしたいし、それと同時にポロリしたい自分の黒さの客観視とかそういうのがココで主にやりたい事なのかな…と約1ヶ月続けて色々書いてみて感じた次第です。あと、これを見て他の人はどう思うのかな?っていうことを聞いてみたかったり、単なる承認欲求(うん、人から認められるって大事)!

多分、吐き出したい事があるなら自分だけのノートに殴り書きでも、パソコンのメモに打ち込むでも良いと思うのですが、人に見てもらう事を想定して書く文章は、ブログという個人ページ内の小さな括りの自由の中にいるから主観的でありつつ、誰からも見られちゃう公共性のある、大きな括りの中の客観視も意識していて冷静さが生まれるから、書きながら『うわー私、これめっちゃくちゃ勝手!!!何様!!!!』って、少しは思えるかと。書きっぱなしにならなずに常に晒される事を考えることで他の人はどう考えるのかな?と立ち止まれることが私にとってはいいな〜と、今思いました。そう、承認欲求も勿論あるけれど(しつこいな。笑)、ちゃんと自分の発言に責任を持つという意味もあり、発散だけではなく整理とその先に答えや道を見つける手がかりになるだろうなぁと、思っています。

人によって意義は違うので、あくまでも私の思うことですが。私の今の時点での、ここで書く意味はこういう事です。書きながら自分の頭の中を知るって変な感じ。

 

そういえば、今日バレンタイン!でしたね。女の子の多い職場で、毎年誰かしら作ってきたり買ってきたりするので、買った小分けのハートチョコを共有机にセット。したのだけれど、そういえば今年は誰も何も持ってきてなかった!ということに今気づきましたわ。今気づいたくらいなので、私イベント好き!っていう人間ではないのですが、何もないと、なかったで寂しいものですね。今週もイレギュラーワークで慌ただしい様子の人が多いので、少し元気になる素に使ってもらえるならそれは嬉しいこと!

早く通常体制に戻ってほしいものです。インフルエンザがまだ尾を引く今週前半でした。 

思わぬ入り口から

今夜、どこで寝る の、まなつさんから星をいただいてうひょー!となっている私です。

 

月曜日なのに、最近仕事がイレギュラーすぎて淡々と過ぎてしまうので、曜日感覚が失われています。通常に戻った時に対応できるのか心配…でも土日はちゃんと休む。

 

今、プロフェッショナル 仕事の流儀見ていて、オグリキャップが取り上げられているという…まさかの競走馬?!とおもいました。

が、

馬なのに、と言ったらとても語弊があるのですが、人間味にあふれ、皆んなに愛されるとても魅力的なお馬さんだったんですね。最後の有馬記念のシーンは思わず泣きました。

一生懸命とか、頑張る姿とか、そういうものってヒトだからどうとかそういう事って関係ないものなんですね。人同士でも頑張る人頑張らない人、ヤル気熱意好意などの有無を感じるのと同じように、通じて分かり合えることってあるんだなぁ、伝わるんだなぁと、思いました。

ただ、それを受け取る人の感受性やアンテナの張り具合などにもよるのかもしれないけれど!オグリキャップの頑張り方もそうですが、それを受けた周りの人が手をかけたいという気持ちがオグリキャップにもちゃんと伝わって、それがレースの勝ちという結果、良いように事が循環していったともいえるのかしら。お互いがお互いに応えようという気持ちって、人間同士でも勿論必要だと思うし。

少し飛躍するかもしれないけれど『あの人がここまでしてくれるなんて…じゃあ自分もあの人のために!』とか『返せる時には自分の答えられる形で精一杯返そう』って気持ちが行動になって順繰り巡っていくから、それを見ている周りもその気持ちを感じ取って、力を貸したくなったり応援したくなったりするんだろうねぇ、と思った次第です。

何のためにそれをするのか、って、結局のところは自分のためにしていることも多いのかもしれないけれど。

でも、1人でできることってそうそうないから、結果的には周りの人に助けてもらったり、気づかないところで支えてもらっていたりしながら日々過ごしていて、それに気づけるか気づけないかで自分の小ささとか周りの有り難さって実感するんだろうなぁ…。私は全然足りないけれども…。

 

なんてことを思いました。毎日いろんなことを入り口にして、自分の考え方や今思っていることを書くことって必要ですね。なかなか整理できていないのが難点ですが!

 

箱の中の世界

自分の住む世界って、こんな感じなのかなと思う。…のだけれど、なかなか広げるのって難しいのも事実で、箱を広げる事も大変だけど、見た事のない壁の向こう側へ飛び出す事も難しい(そして私は外の世界へ行くってなかなか勇気がいる)。

止まっていたいと思うわけではないけれど、でも、止まっている自分に対して私ってこんなにつまらない人間なのかよ、って感じる事もあって、それはそれで残念になるというか、自分のプライドの高さなのかもしれないと思う。

毎日何をしたいのかよくわからないまま過ごしていて、余計に、この箱の中で過ごすことに満足していて良いのかな?とかこの箱はそもそも今の私にマッチしたところなのか?とか、逃げたいがためにそういう事を思っているのかー?とウンウン唸ってみている最近!

 

自分のやりたい事をやったり、生きたいように生きていたいと思うことと、私に関わる周りの人の事を考えることと。

全部がぴったりうまい具合に行く事ってまぁそうないことも分かるんだけれど、何を優先すれば良いのかな〜と、最近よく考えます。最終的にはバランスが取れていればオッケー!て事だとは思うのだけれど。私自身の頭の中や気持ちと、周りから求められる事の要求水準の高さや内容がマッチしていなくて、そのギャップに苦労している日々です。

役割とか役目って事から言えば、全うすべき事だと思うんだけれど、できない事を突きつけられて急にそうしろと言われてもたじろぐだけで、とりあえずそれにしがみついてもがいている最中でもあります。

多分、無理をしなくてはならないことってこの世には必要で、それがあるから成長できることもあるとは思う。ただ、どこかでそれが打開できなくて、何の身にもならないのであれば、本当の意味で必要なことではない、無理の仕方なんだろうとも、思います。それは甘えなのかな…?

 

ただ、1つ言えるのは、何するにも自分のことや周りのことをしっかりと見渡せる余裕がない時ってなにしても多分ダメな気がするよ!

余裕ってなんだ!って話になるけれども…。とりあえず、余裕ない時の私は、腰重い、寛容さが消える、イライラしやすい、無口になる、人の事を責め立てやすい、嫉妬しやすい、他人がドヤることに対して、大したことないのにアホくさい…自己顕示欲の塊か!と思う事が極端に多くなる、全てにおいて良いところが見えない、悪口を言いたくなる、机ぐちゃぐちゃ、家ではぼんやりしか過ごせない、遅寝、外食が多くなる、リラックスの方法がない…など。

多分これの逆が出来ている時は気持ちも頭もスッキリしていて、程よく生活できている時。どういう方法をすれば、そうなれるのか分からないし、まさにそれを模索している途中だけれど。

今少しだけ思うことは、支配される環境下から脱して、好き勝手できていて、自分なりに考えてやってきた結果がこうだから、多分このままだと自分寂しい人生だなぁということ。対人関係も、自分としての人生を送ることであっても。解き放たれてからの方が自分の自由意思が浮かんで、本来の私になってきたのかもしれない。

中身をちゃんと詰めていく作業をしたい。

助けられないと生きていけない子っていう括りから解き放たれたい。

 

なんてことを思っていました!

日記というよりも、頭の中の整理用!度々使います。

自分のためにしてあげる

十分、自分勝手に自分のために生きている私ですが、本当の意味で自分のことを大事にし、時間を割いてはいない、と感じた内容でした。

 

はせおやさいさんのブログ。

コンビニコスメが好きだ。 - インターネットの備忘録

 

別に仕事人間でも仕事大好き人間でもなんでもないのに、気がつけば気持ちも体も荒んでボロっとなっている私の「自分のためにちゃんとする」っていう、私なりの解釈。

命を磨くっていうと大げさかもしれないけれど、自分が活力を持って生活する、ためのメンテナンスをすることなのかな。それは、生活の張り合いになったり、生活や仕事のモチベーション、質の向上にもつながったりするのかな。そして私はそれをできていないな…と思いました。

仕事で疲れ切った帰宅後、何に時間を使っているか考えてみたら、とりあえずついているTVをぼんやり見たり、スマホをいじったり、炊事洗濯、たまに本を読んだりするくらい。中身がなさすぎる…!

自分の体や気持ちに向けて何かする時間は大切なはずなのに、その時間を何もせずにただただ過ごすことに終始してしまっている!と、今更気づきました(最近、今更になって気づく事が多いですね、精神的に未熟で鈍感って恐ろしいです…)。

自分のことに目を向けて、自分の体や気持ちを知って、今度はじゃあ周りはどうだろう?と見回す事ができる、そういう余裕が初めて持てるものだ、と私は思っています。自分は置いておいても人のことを考えられる人もいるのかもしれないけれど、荒んだり悲しくて苦しい人からお世話になるって、それを受け取る人も心苦しいと思うし、まず自分のこと大事にして!って思うのではなかろうか。

コスメに限らず、何かで自分のために時間を使って自分に向き合うっていうことが、自分に対する肯定感とか、癒しとか、そういったものになるのかなぁ、穏やかになったら人にも優しくなれるものなぁ、と思ったのでした。

多分、そういうことではないのだろうけれど、はせおやさいさんの、この記事を見てそう感じました。

 

というわけで、今日は何か自分のために面倒がらずに!してあげようと、思います。