かにさん記録 blog

日々の思うこと、好きなこと、考えの整理!

自分ワールド

カンブリア宮殿見ていて、お仕事すっっごい熱心で、自分の作るものや良いと思った物をみんなに知って欲しい!!という気持ちが溢れている人のそれに対する純粋さとか無邪気さって最強だな、と思いました。自分の生活や今の安定投げ打って(という感覚すらないのかもしれないけれど)、そして周りをしっかりまきこめる、巻き込んじゃうバイタリティ。その話の中では、家族と住むお家にお金をかけるよりも、新しいお店を出店させたりすることにお金を使ってしまうって話でした。私から見たら、奥さんと子供がいて、家が寒いからとダウンを着込んでコタツで夕飯囲むっていうのは団欒ぽくもあるけれど、それで生活しているお金を稼ぐとは言え、それは我慢すべきところなのかなという疑問も浮かんで来ていました。赤の他人の私が言うことでは無いのですが。それはさておき。

そこで思ったのは、何かに打ち込んだら、何かを諦めたり犠牲にしなくてはならないんだろうか、犠牲と思わなければ、そうは取られられることもなくて結果を受け止めるだけなのかな。1人でやるなら例えダメでも犠牲なったとしても1人だけれど、巻き込む人がいた時にはその犠牲の意味は全く違ってくるものだし、背負う何かもそのぶん大きいはず。

でも、打ち込めるだけの何かなのだから、他を差し置いてできるそれ以外を考えた時に「諦める」とか「犠牲になる」って言葉すら出てこないものなのかな??これは良いに違いない!一番良い選択をしているのだから、進むべき道を行くのみ!ていうこと?そこまでの自信や説得力を持っていなくても、芯があってこれから肉付けしていければよい!これから実績を作るのだからまずは動くんだ!ていうことも含むのかしら。でも、打ち込んで何にもならなかったら?うーん。

私は、多分何かを新しく始めたら何かを手放したり無意識のうちに手放して来たことが多くて、ずっと手に入れておきたいものがそう無かったという事かもしれないです。執着がないというか。淡白で薄情というか。何かにつけてやらなくてよい理由を見つけたいだけなのかも知れないけど。あとは、打ち込んだ先に何も無かった時が虚しいっていうのも嫌だからなのかも知れないです。

学生時代にやっていた部活が良い例で、部活には打ち込んだけれどそれだけで、他のこともそのモチベーションをうまく利用して力を注いだり頑張れる源にできなくて、終わって引退してみたら、空っぽ。次何しよう…ってすごくポカンと穴が開いてしまったんです、そう、今思えば燃え尽きていました。それ以外何もやっていなかった!受験勉強もまぁちょこっとやったくらいで、力を注いでいた部活の分は全くうまくシフトできなかったんです。1つ終わればプツンと断線。何かにつなげて使う術を勉強や部活、人間関係においても下手くそすぎてできなくて、ある一定のところでプツンと切れてしまうことが多い、いやほとんど!

打ち込んで、これだけやったんだから!という自負みたいなものを感じることもなかったかも知れないなぁ。これじゃまだダメだとか嫌だとか何かにつけて、理想やプライドだけは高く掲げているから自分への、よし!も無くて来たのかなぁ…。何より、我慢したりした甲斐のあるものにも出会えてないっていうのは大きいかも知れない。

なんて事をおもいかんがえました。

にしても、熟成肉、美味しそうでしたー!あと一日、頑張れば連休だー!早くお花見焼肉したいなぁと、じゅうじゅうなお肉と網をガン見でした。

書くことについて、再び

職場用の水筒パッキンが見事にズレてはまっていたので、朝から鞄が大惨事…!!それでも早めに気づいたのでまだ良かったのかな〜。でも、お財布まで濡れてしまってコレドウシヨ…と固まりました。キズ含め、綺麗にしてもらえるところを探そうかと思います。週中、引き締まってこー!!

 

日々、何か書けることはないかなーと、すごく意識してはいないのもあって、毎日そうそう書きたいこととか記しておきたいことってないな…アンテナ低いんだろうか、と思うと同時に、それだけ変化なくさーっと毎日過ごしてきちゃっているなぁとも思ったり。興味関心が薄いのかしら。でも、何か書きたいという気持ちは毎日あるので、それなら何かしら書けることを探せば良いだけの話なんだろうけれど。仕事のことでも生活のことでも、赤裸々に書くのは何だか違うけれど、それを般化して書けるまでの話の広げ方をするのって難しい!ただの日記なら秘密ノートに殴り書こうが良いだろうけれど、そうでなくてここに書く意味。うーん。前にも書いたけれど、ある程度意識して書くからこそ客観視も生まれる?だろうから、それは良い点なのかなぁとやっぱり思うし。

 

あ、そういえば、朝のニュースで小田和正さんが特集されていて、今年70歳になられるとか…!見えないし若いしなんであんなパワフルなんでしょうってくらいに相当若い!アリーナコンサートに一回行った時もあちこち走り回っていて、なんでそんなに体力あるんだ!!と本当に驚きました。オカンのお腹の中にいる時からオフコースを聞いて、文字通り育った私なので勝手に親近感があり…我が家では「小田さん」と近所のおじさんを呼ぶかの様に呼ばれます。

歌うキーは、原キーのままで歌っていて、そのキーが歌えなくなったら身を引く、ように思っているとのこと…確かに、歌っている時って昔の曲もほとんどキー変えずに歌っているからか、全然違和感なく耳に入ってきます。アレンジで変えていたりはするのかもしれませんが。70歳になってもなおストイックで、力の限りを歌に注いでいることも、そのパワーが持続されていることも、それをなんでもないかの様にやっちゃっていることも、常人じゃない…と思う私は甘ったれでしょうか。いや、そのストイックさやプロ精神、爪の先ほどでも真似ればワンランクアップした結果を得られるのかもしれないですね…。本当に感心する、ストイックさ。そこに力を注げる自分の人生をかけた仕事の結晶が、あの歌の数々ってことですからね〜本当にすごい…(何度も言います)。

ものすごくどうでも良い事しかやっぱり書いていないけれど、書きながら、書きたいことを少しずつ記していこうと思います!

切り替えコンテンツ

最近、頭の中のことを思うまま徒然書いていましたが、別の話題。週末の気分良い波のまま、週初め!でしたがやっぱりなんだかんだで終われて昨日も時間にしがみついて一日が終わりました。

やはり、いつまで経ってもコントロール難しいなぁ。次々来ることこなすばかり。立て直してリセットしたつもりがあんまり効果なかった…!とりあえずそれに気づけたので、今後の改善にということで良しとしよう。

でも、TSUTAYAで借りてきたCDをスマホに入れたのでリスト更新されて行き帰りの切り替えは良い感じ。今まで、疲れた時、元気のない時には静か〜なヒーリング系に限るものだ!!と思ってゆらぎの音、みたいな癒し音楽を聞くことが多くあったのですが、ロックやポップスでも今の元気具合なら受け入れられるのでむしろその方が気分をガラッと変えられて合っていました。自分は歌っていないけれど、発散されるような感じ。脳内ライブが開催されているかカラオケをしているイメージで、ちょっと小旅行できるようで楽しい。便利な私の頭です!前書いた、オーサムシティクラブの4枚目をやっと借りられてホクホク。ただ、借りた時の棚がサチモス好きな人はこちらもどうぞ!みたいなくくりになっていたのが不覚…!サチモスから流れたわけではないしサチモス好きなのも何だか流行り物に飛びつくみたいで嫌だ〜と思いながらお店で変な葛藤。サチモス嫌いじゃないしむしろ好きだけれど、ただサチモスからの流れ者じゃないもん!!という意地というか主張をしたいというか。複雑というか面倒な、主張。

あと、音楽つながりでもう1つ。職場で声楽をやっている同僚のコンサートチケットを受け取ったので、楽しみが増えました。そういう機会がないので単純に楽しみなのと、私は普段の生活で体験できないことを、周りの人によってその機会を得られるってことがラッキーだなぁと思います。音楽に関するイベントごとが今月来月と続くので、毎月の楽しみと息抜きを目標にして頑張ろーう。楽しみがあるとやっぱり前に目線は向きますね。さぁ今日こそ追われすぎずに居られるように!

人との距離感

週末、本当にたくさん話をしました。実家に帰った時にも話はしますが、短い時間で何度も意思表明できたり色んな人に違った角度から色んな質問を投げかけられることはないので、それがこの二日間にワッとできたのはとても大きかった。近しい人、第三者的な意見として、輪の外から客観的な提示をしてくれる人まで。

自分のことをそれぞれの場所で知る人たちと話をしてみて、ある程度の軸は自分の中にあることを認識できたり、こういうことを思っていたんだなぁ、足りないことはここだなぁと再認識できるきっかけにもなりました。影響を受けすぎているなぁってことを再認識したりもしましたが…でも、とても良い時間で私に必要な時間でした。ちゃんと話ができた所と多分うまく伝えられていない所もあったと思いますが、それぞれの時間を贅沢に使わせてもらって本当に有難いです。

 

そこで思ったことです。人との距離感の話なのですが、私とても下手くそで、変なところでものすごく遠慮したり、逆に、この人良い人!と思ったらすぐついて行きたくなっちゃったり、お近づきになりたいのにそれを自分から言えなくてチャンスを逃したりきっかけを作れなかったり。そんな感じなのと、見た目の印象と中身が逆行しているらしいのでそれも相まって良くも悪くも勘違いされたり誤解される事もしばしば。だから、今回のように、色んな距離感から私をみてくれている人があぁだこうだと言ってくれることがすごく嬉しかったのです。それぞれの距離での私の「理解者」がこんなにいる!しかもみんな私のことちゃんと分かってるー!!と、感じることばかりで、本当に嬉しかった。

それぞれの距離で思うことや見えることを率直に話してもらえたことや、問われたことに答えてみて、足りないものや積み重ねていかなくてはならないこと、本当は逃げていたことも目の前に差し出された感じです。

 

そこで、大きいのは未だに親の影響。何かにつけても生まれてからずっと育て、見守ってくれてきた人達。自分の価値観や正しさが、家の中のことが元にはなっていて、確かにベースではあるのだけれど、そこに積み重ねたり削ぎ落とす自分の感覚の成長は放棄して既存のもの(親産)に頼っていたなぁ…それで苦しくなっている今だから、自分の望みや生活スタイルや、今後のことを考えた時に色々とつきつけられて、どうやってもハマらないしハマるはずがない。怠けずに、自分の進みたい道を進もうと思っていたけれど、中途半端に自分でやってみて面倒になったら後は従っていれば楽チンという結果に結局はおさまっていたようです。

子どもは何歳になっても子どもだから!という言葉は人ごとのように聞いていたのですが、我が家では特に母親がそうで、たくさん甘えさせてもらう部分もありますが、これってこのままじゃイカンよな〜これ半分寄生しているような状態だよな〜と感じることも多々。それができる環境は有難いし、そういう環境で上手く付き合える人もいるのでしょうが、今の私には少なくとも出来ないので、私流での付き合い方を今、見つけようとしているところです。そのための距離を取るという方法。こうすることが正解なのかは分からないし、少なくとも距離を置くことで若干の嫌味と寂しさや複雑に混ざった言葉が発せられるので(それは受け取る私の感覚の問題だけれど)、これが良いものでないんだろうな〜とは思っています、まだ変えないと難しい。

大人として、1人の人間として独立した存在になるための、いわゆる親離れ子離れってやつが出来ていない!うわー!と、気づいたのも最近で、各お家で考え方や感覚は違うからな〜と家庭環境の結構違う友達もまま多かったので、あまり気にしていなくて、自分自身が疑問を感じることもなかったのですが、ふと気づいたのが最近。それだけ、自分の家の感覚が身に染み付いて「普通」って思っていたからだったんですね。育った環境や培ってきた自分の感覚を周りと比較して、世間とのズレや厳しいな、緩いな、物事の良し悪しやモラル、常識、マナーというものを感じて自分の生きるところにマッチした形に作っていくってことが、意識しないと出来ない人でした、というか今それを意識しないと…と感じて動き始めたところです。

結構というか、かなり自分のおもむくままの生活をしてきていて、それを周りの人も有難いことに寛容に受け入れてくれていて、考えなしの私は「あ、これで良いんだ〜」とかなり楽していました。そして今に至る。なので、周りが自分と比較してどうかっていう本質的なところには目が向けられていなかったのが、今になってこうして色んなことに付随して困りごとになってムクムクと表面に浮いて出てきたんですねー。

話が飛んでしまっていますが。人間関係の一番小さな、距離の近いカテゴリーは家族で、そこでの人への接し方や考え方は自分を形作る基本であり、身近で見本になるのもそのカテゴリー。そこで自然と学んだら気づいて学ぶことで、それを外での生活に適応させるから、外に出た時に違う!とびっくりすることもあるししっくりマッチすることもある。自分の住まう環境で新たに育てる感覚もあるし、色んなものを総合してやっとこさ、自分の型が出来上がっていくんだなぁと、思い ました。

色んなことに気づいたり考えたりするのに時間がかかるし浅いことも多いけれど、自分なりのものが確立されるようにたくさんのことに触れて、感じて考えて行きたいと改めて思いました。久々に良い週末過ごせたー!!!と嬉しいので今週も頑張ります。

雪が少しずつなくなってきて、コートからそろそろ卒業したい日和!

思ったこと

平日を終えて、私の休日の過ごし方にしては、早い動き出し。晴れている!気持ち良い休日の始まりー!

テレビでは震災を振り返る特集がたくさん組まれています。もう6年経つんですね。時間の流れが速いような遅いような。

震災前の福島のイメージってどういうイメージでしたか?っていう話があって、今の強烈な震災後の印象が大きすぎるんだなぁと改めて思いました。多分、震災前のイメージはそれぞれ1人ずつ違うものがあったはずなのに、1つの大きく強烈な出来事によって、たくさんの人のイメージをガラリと変えてしまった。それが、人に対しても、向けられていて悲しく悔しく嫌な思いをすることにもなってしまうこともあって、苦しんでいる人がいるという現状。6年経ってもそういう状況がある、言っていても悲しくなる今です。

 

正直、私も今の福島のイメージ、と言われるとどうしても震災後の原発のことが先行してしまいますし、それに対する理解や知識も薄いものだと思います。でも、それについて知らないし怖いから避けようとか、除外しようとは思わないし、そういう風には思いたくもないです。

何でそういうイメージや考えになるのか??と、考えた時に、自分にとって得体の知れないものや知識のないもの、知ろうとしないものには排除因子として一括りになっていて、一端の情報や知識で全てを判断してしまうから、自分にとって排除!こっちこないで!となってしまうのかなと思いました。与えられる情報や知識を吟味選択するという大事な作業がまるっとないというか。あるがままに分かりやすいことを手に取るのが一番簡単だし、見出しの目立つトピックに目に通すだけで何となくわかったような気になり、自分の意見や考えのようにして取り入れる、ことが起こるからそうなってしまうんでしょう。これは福島の事に限らず。

与えられれば、それに対する自分の考えや想像力が欠けてしまいがちになるのかもしれません。知ろうとするから考えることもあって、関心を寄せることにもなるはず。

この日だから、とかこのことだけ、に限らずに必要なことというか、心に留めておきたいです。

フキゲンの訳

よぅし今週も頑張るぞー!と思っていましたが、気分を上手く切り替えられず、グダグダしたまま仕事してしまいました…そしてあり得ない凡ミス。相手には本当に申し訳ない事をした…。

 

というのも、何となくモヤモヤしていたりグツグツと何かが煮立つ感じがしていた周りの人との関係。まなつさんのブログから。これめちゃくちゃ私ー!

自分のご機嫌は自分で取る - 今夜、どこで寝る

私も自分の機嫌は周りの人にとってもらっていた人、というかなう、だったのをなんとか変えようと模索中。はぁ、本当になんとかしたい…自発的に何かしたり周りに目を配ろうとか、前よりもやっているつもりではありますが、急にやろうと思っても不自然で、空回りしてるなぁっていうのが自分でも分かる感じです。

私の場合は、「してもらえる」事が当たり前になっていた、という事もあるし、そうしてくれている人がいる事で自分の価値みたいなものをそこに見出していた節もありました。だから、基本的に受け身だし「なんでもいいよ」の人でした。なんでもいいよ、は大抵のことは不満も言わないし楽しんだり食べたり飲んだらするからいいよ、っていう意味ですが…書くともんの凄い偉そう…。私の好きなもの、楽しいもの持ってこーい!!!っていうことで、どこの何様?っていう態度ですね、で、好きじゃないものだったらむくれるというオチ、こりゃー仲良くしたくないタイプ。

だから自分で自分の好きなものもわかっているようで分かっていないし、あまり積極的に見つけようともしていなくて、与えられるがままに受け取って、いるorいらないと、ただ判別していただけなので、大体やる事は中途半端になっている気がします。あとは、自分の好きそうなものがどの辺にあるかとか、どこにどんな物が転がっているか、っていう事を知らない。知ろうとせずに、もらうままにその場にとどまっていました。そして、自分探しをしている人が物凄く胡散臭い感じがしていて好きではない(正直今も…)。実際の人間関係で「自分探し」に一方的に嫌なイメージがついてしまったというしょうもない理由なのですが、それすらキチンと出来ていない私には、彼ら彼女らを嘲笑う資格はないって事ですね〜…。でも、まだくだらないミエで自分探し!って言う事はまだ出来ないので、今は声に出さなくても、黙々と自分の中で勝手に進めていこうと思います。

そして、自分の好きなもの嫌なものをちゃーんと判別して、選択した結果を得たいな。できるなら不機嫌より機嫌よく毎日過ごしていたいし、そういう人間でいたい!

 

迷いが多いけれど、そういう時にこそハッ!とする言葉に出会えますね。有難い…!

いつもの世界を離れて見てみたら

今日は色んなことをやった日でした。お休みのいただいたので、絶対やる!と決めていた事ののほかに、平日しか出来なさそうなこと…銀行に行ったりとか、そういう事。

友達の結婚祝いを送ったり、すり減っていたブーツの底の貼り替えをお願いしたり、仕事で使う本を見に行ったり。ずっと悩んでいたメガネを作り替えに行ったり。気になっていたカフェでランチをしたり。カフェはしごをしてみたり。そういうこと。普段、時間がないから後で!とか、悩んで今は決められないから結局後回し、になる事が私ははたくさんありすぎます。よくどうでも良い事で悩んで決められなかったり、面倒だな〜と思っているうちに結局忘れてしまったりする。それをもうしっかりやろう!と決めて今日は午前中からよく歩きました。出費も比例しました。

今日は、周りの人の歩みの速さには極力、意識的に合わせないようにしてみようと思い、自分の歩きたいスピードでのんびりテクテク歩き回りました。その結果、いつもかなり頑張って、周りに合わせながら歩いていたってこともわかりました。まぁ普通はそうか。でも、人に合わせないで歩くスピードってゆとりもあって周りも見えるし、穏やかな気分。反対に、今日のように自分がゆっくり過ごそう、ゆとりあるなと思った時の、周りの歩みの速さがとてつもなく高速に感じて、私はいつもこの波の中の一員なんだよな〜と思いました。側でみていると、ここにのまれたくない…と、物凄く思うし、たとえ一員であっても忙しなく居たくはないんだな、この速さはイヤだ、と私は超絶マイペースで生きたい人間と改めて認識。勝手身勝手!でもそういう風な生き方を今まで許してもらえて居たって事ですね…。

オンオフでいうと、あんまり区別のない人生を送ってきたので、いつでもどちらか1つで、どこに行ってもあまり変わらないというのは多分そうしなくても受け入れてもらえていたし、そうしなくても何となくやってこられたので、ほぼ「素」で過ごすことができていた、のだと思います。いつでもケロリとしていて度胸あるよね!と言われた所以はこういう所にあるのかと。スイッチ、あるに越したことはないしそうしないと自分が疲れるな〜と、歩きながらそんな事を思っていました。

書きたいことはまだあるけれど睡魔には勝てないのでまた今度の機会に。

さーて、明日からまた頑張るぞー!