かにさん記録 blog

日々の思うこと、好きなこと、考えの整理!

春らしい。

暖かくなってからの三連休!特にこれといって大きな予定はなかったのですが、暖かい!晴れている!春!というだけで気分が良かったです。

連休だーいと言いながら、普通の週末と大きくは変わらず…。でも、ご無沙汰のスープカレー屋さんに行ったり、レースカーテンとタオルケットを思い切って洗濯したり。ただ、洗濯したはいいけれど、既に小物を干していて、大物タオルケットを干す場所がなかったのを全く考えておらず、洗濯機の送風機能で6時間くらい頑張ってもらいました…。浴室乾燥ほしい!何してるんだろう、アホすぎるなぁ…と思いながら、一通り終わった後はモンテールの抹茶ミニシューをもぐもぐ。モンテールのシリーズ好きです。こういう普通のことをしていて、晴れた外を見て、穏やかだな〜と思える時間があって、それだけでも少し疲れが回復しました。

冬のうちに寒さや湿気でじめついた(身も気持ちも部屋も)部屋を一気に解放し、3日連続で長ーい時間に渡って外の空気にさらして、少しはカラリとできたかな?と。

ただ、何となくまだ部屋に何かがこもっているような気がしているのですが、何がこもっていて、一掃したら良いのか、洗い流すのか干すのか、何をしたら良いのかは分からず…。以前、断捨離をしよう!とこころに決めて取り組んだ時にはかなりのものは手放してスッキリはしたのですが、整理しきれていないのか、手放した方が良いものがまた出てきているのか、若しくは手放したりないのか…。なんだろうな。部屋の中をぐるりと見てみて、気になる箇所は改めて向き合う必要のあるところなのかもしれないですね。

ちなみに、話は少しずれますが。去年私が断捨離しよう!と心に決めた時に読んだのはこんまり先生の本でした。

 

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 
人生がときめく片づけの魔法2

人生がときめく片づけの魔法2

 

 この2冊。1冊目があれば、片付け自体は済ませられました。必要のなくなったものを手放して必要なものを残すこと、ものの居場所を決めること、細かな片付けの分類など分かりやすかったです。2冊目は、自分の手元に置くモノを考えること、それらとの付き合い方や日々の生活の仕方、人との付き合い方と、ものの扱い方を考えて、更に片付け後の生活を考える、という後日談的な要素がより盛り込まれています。断捨離した!必要のなものはこれ!理想の部屋を作っておわり!というよりは、アフターケアまで丁寧にされている感覚。部屋を綺麗に保つことや、好きなものに囲まれていられることの幸福感や、それが続けられることって平穏な日々だよ、と教えてもらったように感じました。

やってみての感想としては…自分の手放すものの多さに驚きでした。こんなに物あったの?!活用できなくてごめんなさい!おせわになりました、ありがとうございました!随分ぞんざいな扱い方をしてごめんなさい!などなど。全く思い入れのないはずの洋服を捨てるゾーンに分けた時にホロリと涙が流れたりもして。キチンと自分が持っていたいものを持とう、という気持ちになれました。今までいくら片付けても何だかあまり意味のなかった私でも、キレイさはある程度保たれていると思います。疲れた時はゴチャッとなることはありますが、それもある一ヶ所だけ、といった具合ですぐに現状復帰させられるようになったので「うわー!!!こんまり先生すごい!!!」と、職場のお隣さんにもオススメした程でした。片付けいらぬ、というひとでも、読み物としても面白いのではないかと思いますよ。

季節の変わり目や時期の切り替えって、動く理由を作るのに最適だし、新たな気持ちを作りやすいので、よい機会でもありますね。うーん、また改めて読み直して、部屋も見直して、春のスタートに備えよう。

また明日から、仕事!連休明けも頑張りましょう。

手遅れとは言わせない。まだいわない。

気がつけば、ブログを書き始めて2ヶ月があっという間にたちました。速いなぁ。雪深かったのにもう春ですね。

 

仕事で映画を見る機会があるのですが、今回たまたま、有村架純ちゃんと福士蒼汰くんの映画をみたのですね。高校生の青春キュンキュン映画!王道な感じの作品です。随所にドキドキポイント満載で、ウフフってなります。

普段自分では見ないもので、借りたいと思う種類でも無いので見ていてキュンキュンするということもたまには良いものだなぁと、甘酸っぱい気持ちの楽しさを思い出しました。それと同時に、私ってこの道を過去、学生時代に通って来ているだろうか??と、振り返ってみました。学生時代に好きな子がいて、話せるだけで嬉しいとか告白するとか付き合うとかそういう事。確かにあったのはあったけれど、正直良い思い出というか、先に繋がったとか、実ったってこと無い!それをまさにこの映画を見て、追体験しているのでは無いかー?!と、気づいてしまいました。追体験に関しては、私の場合には、ですが。あんな素敵なことあったなぁ、って思い出に浸りつつ見るというよりは、こういう素敵な青春時代過ごしたかったなぁ、って気持ちの方が強いかも知れない…。

 

学生時代にやって来たことは後悔していないし、それなりにおかしく楽しく過ごして、なんとかなんとかやって来た結果今の私があるので…それを否定したくはない!という気持ちも含めですが。

またその、追体験を映画やドラマでしているのかも、と考えると、私が通って来た道の中で達成されるとされている、ライフサイクルってどのくらい達成されて前に進めているのかな〜と、考えました。それで、思い出したのが学部で習ったエリクソンの発達課題。それぞれの年代年齢枠で、達成されていたら幸せに暮らせるであろうという課題があるよ、という考え方。エリクソンの場合には、成功した時と失敗した時とどちらも、経験としては大事なことで、両方を経験して統合させることでよりスムーズに前に進めるよ、というもの。物凄くざっくり言うと、そう言うものです。今の時代にもさほどズレがないんじゃないかなぁと思うので、そう考えると理論とか哲学的な学問て凄いですよね。

私がこれを学部で勉強した時には、発達課題への難しさや困難さって思う事はなく、多分深く意識することもなかったし、そんなことって起こるのかな〜と思う程度でした。でも、この理論で言われるような、各々の年代で乗り越えたり達成されたりすると良いと言われる、当たり前のことを当たり前にすることの難しさとか、その「当たり前」が本当に当たり前なのか?ってことを考えさせられます。その年齢、年代でできなかったことは、後から後から追いかけるように達成して行くことでも、遅くても自分のペースで自分の納得いく形で人生を積み重ねて行けることになるので、根気強く付き合って向き合ってくことが必要っていうところは何だか救われる部分で「まだ手遅れじゃない!」とホッとするところでもあります。それぞれに対して丁寧に向き合い、悩んだり困ったりしながら、少しずつその坂道を登っていくことが自分を形作るものになっていくという意味では、自分の持つ力を信じてあげようよ〜気長に〜と、言われているようでもあります。習ってからしばらーく経った今になって、自分も救われることだったなぁ、と改めて思いました。

生き直しって言葉はあまり好きではないけれど、人生何度でもやり直せるし、自分が諦めない限りはそのチャンスはあるんだよ、ということを再確認させられました。というか。そういう言葉が今欲しかったのかも!

 

さーて、連休だーい!

自分ワールド

カンブリア宮殿見ていて、お仕事すっっごい熱心で、自分の作るものや良いと思った物をみんなに知って欲しい!!という気持ちが溢れている人のそれに対する純粋さとか無邪気さって最強だな、と思いました。自分の生活や今の安定投げ打って(という感覚すらないのかもしれないけれど)、そして周りをしっかりまきこめる、巻き込んじゃうバイタリティ。その話の中では、家族と住むお家にお金をかけるよりも、新しいお店を出店させたりすることにお金を使ってしまうって話でした。私から見たら、奥さんと子供がいて、家が寒いからとダウンを着込んでコタツで夕飯囲むっていうのは団欒ぽくもあるけれど、それで生活しているお金を稼ぐとは言え、それは我慢すべきところなのかなという疑問も浮かんで来ていました。赤の他人の私が言うことでは無いのですが。それはさておき。

そこで思ったのは、何かに打ち込んだら、何かを諦めたり犠牲にしなくてはならないんだろうか、犠牲と思わなければ、そうは取られられることもなくて結果を受け止めるだけなのかな。1人でやるなら例えダメでも犠牲なったとしても1人だけれど、巻き込む人がいた時にはその犠牲の意味は全く違ってくるものだし、背負う何かもそのぶん大きいはず。

でも、打ち込めるだけの何かなのだから、他を差し置いてできるそれ以外を考えた時に「諦める」とか「犠牲になる」って言葉すら出てこないものなのかな??これは良いに違いない!一番良い選択をしているのだから、進むべき道を行くのみ!ていうこと?そこまでの自信や説得力を持っていなくても、芯があってこれから肉付けしていければよい!これから実績を作るのだからまずは動くんだ!ていうことも含むのかしら。でも、打ち込んで何にもならなかったら?うーん。

私は、多分何かを新しく始めたら何かを手放したり無意識のうちに手放して来たことが多くて、ずっと手に入れておきたいものがそう無かったという事かもしれないです。執着がないというか。淡白で薄情というか。何かにつけてやらなくてよい理由を見つけたいだけなのかも知れないけど。あとは、打ち込んだ先に何も無かった時が虚しいっていうのも嫌だからなのかも知れないです。

学生時代にやっていた部活が良い例で、部活には打ち込んだけれどそれだけで、他のこともそのモチベーションをうまく利用して力を注いだり頑張れる源にできなくて、終わって引退してみたら、空っぽ。次何しよう…ってすごくポカンと穴が開いてしまったんです、そう、今思えば燃え尽きていました。それ以外何もやっていなかった!受験勉強もまぁちょこっとやったくらいで、力を注いでいた部活の分は全くうまくシフトできなかったんです。1つ終わればプツンと断線。何かにつなげて使う術を勉強や部活、人間関係においても下手くそすぎてできなくて、ある一定のところでプツンと切れてしまうことが多い、いやほとんど!

打ち込んで、これだけやったんだから!という自負みたいなものを感じることもなかったかも知れないなぁ。これじゃまだダメだとか嫌だとか何かにつけて、理想やプライドだけは高く掲げているから自分への、よし!も無くて来たのかなぁ…。何より、我慢したりした甲斐のあるものにも出会えてないっていうのは大きいかも知れない。

なんて事をおもいかんがえました。

にしても、熟成肉、美味しそうでしたー!あと一日、頑張れば連休だー!早くお花見焼肉したいなぁと、じゅうじゅうなお肉と網をガン見でした。

書くことについて、再び

職場用の水筒パッキンが見事にズレてはまっていたので、朝から鞄が大惨事…!!それでも早めに気づいたのでまだ良かったのかな〜。でも、お財布まで濡れてしまってコレドウシヨ…と固まりました。キズ含め、綺麗にしてもらえるところを探そうかと思います。週中、引き締まってこー!!

 

日々、何か書けることはないかなーと、すごく意識してはいないのもあって、毎日そうそう書きたいこととか記しておきたいことってないな…アンテナ低いんだろうか、と思うと同時に、それだけ変化なくさーっと毎日過ごしてきちゃっているなぁとも思ったり。興味関心が薄いのかしら。でも、何か書きたいという気持ちは毎日あるので、それなら何かしら書けることを探せば良いだけの話なんだろうけれど。仕事のことでも生活のことでも、赤裸々に書くのは何だか違うけれど、それを般化して書けるまでの話の広げ方をするのって難しい!ただの日記なら秘密ノートに殴り書こうが良いだろうけれど、そうでなくてここに書く意味。うーん。前にも書いたけれど、ある程度意識して書くからこそ客観視も生まれる?だろうから、それは良い点なのかなぁとやっぱり思うし。

 

あ、そういえば、朝のニュースで小田和正さんが特集されていて、今年70歳になられるとか…!見えないし若いしなんであんなパワフルなんでしょうってくらいに相当若い!アリーナコンサートに一回行った時もあちこち走り回っていて、なんでそんなに体力あるんだ!!と本当に驚きました。オカンのお腹の中にいる時からオフコースを聞いて、文字通り育った私なので勝手に親近感があり…我が家では「小田さん」と近所のおじさんを呼ぶかの様に呼ばれます。

歌うキーは、原キーのままで歌っていて、そのキーが歌えなくなったら身を引く、ように思っているとのこと…確かに、歌っている時って昔の曲もほとんどキー変えずに歌っているからか、全然違和感なく耳に入ってきます。アレンジで変えていたりはするのかもしれませんが。70歳になってもなおストイックで、力の限りを歌に注いでいることも、そのパワーが持続されていることも、それをなんでもないかの様にやっちゃっていることも、常人じゃない…と思う私は甘ったれでしょうか。いや、そのストイックさやプロ精神、爪の先ほどでも真似ればワンランクアップした結果を得られるのかもしれないですね…。本当に感心する、ストイックさ。そこに力を注げる自分の人生をかけた仕事の結晶が、あの歌の数々ってことですからね〜本当にすごい…(何度も言います)。

ものすごくどうでも良い事しかやっぱり書いていないけれど、書きながら、書きたいことを少しずつ記していこうと思います!

切り替えコンテンツ

最近、頭の中のことを思うまま徒然書いていましたが、別の話題。週末の気分良い波のまま、週初め!でしたがやっぱりなんだかんだで終われて昨日も時間にしがみついて一日が終わりました。

やはり、いつまで経ってもコントロール難しいなぁ。次々来ることこなすばかり。立て直してリセットしたつもりがあんまり効果なかった…!とりあえずそれに気づけたので、今後の改善にということで良しとしよう。

でも、TSUTAYAで借りてきたCDをスマホに入れたのでリスト更新されて行き帰りの切り替えは良い感じ。今まで、疲れた時、元気のない時には静か〜なヒーリング系に限るものだ!!と思ってゆらぎの音、みたいな癒し音楽を聞くことが多くあったのですが、ロックやポップスでも今の元気具合なら受け入れられるのでむしろその方が気分をガラッと変えられて合っていました。自分は歌っていないけれど、発散されるような感じ。脳内ライブが開催されているかカラオケをしているイメージで、ちょっと小旅行できるようで楽しい。便利な私の頭です!前書いた、オーサムシティクラブの4枚目をやっと借りられてホクホク。ただ、借りた時の棚がサチモス好きな人はこちらもどうぞ!みたいなくくりになっていたのが不覚…!サチモスから流れたわけではないしサチモス好きなのも何だか流行り物に飛びつくみたいで嫌だ〜と思いながらお店で変な葛藤。サチモス嫌いじゃないしむしろ好きだけれど、ただサチモスからの流れ者じゃないもん!!という意地というか主張をしたいというか。複雑というか面倒な、主張。

あと、音楽つながりでもう1つ。職場で声楽をやっている同僚のコンサートチケットを受け取ったので、楽しみが増えました。そういう機会がないので単純に楽しみなのと、私は普段の生活で体験できないことを、周りの人によってその機会を得られるってことがラッキーだなぁと思います。音楽に関するイベントごとが今月来月と続くので、毎月の楽しみと息抜きを目標にして頑張ろーう。楽しみがあるとやっぱり前に目線は向きますね。さぁ今日こそ追われすぎずに居られるように!

人との距離感

週末、本当にたくさん話をしました。実家に帰った時にも話はしますが、短い時間で何度も意思表明できたり色んな人に違った角度から色んな質問を投げかけられることはないので、それがこの二日間にワッとできたのはとても大きかった。近しい人、第三者的な意見として、輪の外から客観的な提示をしてくれる人まで。

自分のことをそれぞれの場所で知る人たちと話をしてみて、ある程度の軸は自分の中にあることを認識できたり、こういうことを思っていたんだなぁ、足りないことはここだなぁと再認識できるきっかけにもなりました。影響を受けすぎているなぁってことを再認識したりもしましたが…でも、とても良い時間で私に必要な時間でした。ちゃんと話ができた所と多分うまく伝えられていない所もあったと思いますが、それぞれの時間を贅沢に使わせてもらって本当に有難いです。

 

そこで思ったことです。人との距離感の話なのですが、私とても下手くそで、変なところでものすごく遠慮したり、逆に、この人良い人!と思ったらすぐついて行きたくなっちゃったり、お近づきになりたいのにそれを自分から言えなくてチャンスを逃したりきっかけを作れなかったり。そんな感じなのと、見た目の印象と中身が逆行しているらしいのでそれも相まって良くも悪くも勘違いされたり誤解される事もしばしば。だから、今回のように、色んな距離感から私をみてくれている人があぁだこうだと言ってくれることがすごく嬉しかったのです。それぞれの距離での私の「理解者」がこんなにいる!しかもみんな私のことちゃんと分かってるー!!と、感じることばかりで、本当に嬉しかった。

それぞれの距離で思うことや見えることを率直に話してもらえたことや、問われたことに答えてみて、足りないものや積み重ねていかなくてはならないこと、本当は逃げていたことも目の前に差し出された感じです。

 

そこで、大きいのは未だに親の影響。何かにつけても生まれてからずっと育て、見守ってくれてきた人達。自分の価値観や正しさが、家の中のことが元にはなっていて、確かにベースではあるのだけれど、そこに積み重ねたり削ぎ落とす自分の感覚の成長は放棄して既存のもの(親産)に頼っていたなぁ…それで苦しくなっている今だから、自分の望みや生活スタイルや、今後のことを考えた時に色々とつきつけられて、どうやってもハマらないしハマるはずがない。怠けずに、自分の進みたい道を進もうと思っていたけれど、中途半端に自分でやってみて面倒になったら後は従っていれば楽チンという結果に結局はおさまっていたようです。

子どもは何歳になっても子どもだから!という言葉は人ごとのように聞いていたのですが、我が家では特に母親がそうで、たくさん甘えさせてもらう部分もありますが、これってこのままじゃイカンよな〜これ半分寄生しているような状態だよな〜と感じることも多々。それができる環境は有難いし、そういう環境で上手く付き合える人もいるのでしょうが、今の私には少なくとも出来ないので、私流での付き合い方を今、見つけようとしているところです。そのための距離を取るという方法。こうすることが正解なのかは分からないし、少なくとも距離を置くことで若干の嫌味と寂しさや複雑に混ざった言葉が発せられるので(それは受け取る私の感覚の問題だけれど)、これが良いものでないんだろうな〜とは思っています、まだ変えないと難しい。

大人として、1人の人間として独立した存在になるための、いわゆる親離れ子離れってやつが出来ていない!うわー!と、気づいたのも最近で、各お家で考え方や感覚は違うからな〜と家庭環境の結構違う友達もまま多かったので、あまり気にしていなくて、自分自身が疑問を感じることもなかったのですが、ふと気づいたのが最近。それだけ、自分の家の感覚が身に染み付いて「普通」って思っていたからだったんですね。育った環境や培ってきた自分の感覚を周りと比較して、世間とのズレや厳しいな、緩いな、物事の良し悪しやモラル、常識、マナーというものを感じて自分の生きるところにマッチした形に作っていくってことが、意識しないと出来ない人でした、というか今それを意識しないと…と感じて動き始めたところです。

結構というか、かなり自分のおもむくままの生活をしてきていて、それを周りの人も有難いことに寛容に受け入れてくれていて、考えなしの私は「あ、これで良いんだ〜」とかなり楽していました。そして今に至る。なので、周りが自分と比較してどうかっていう本質的なところには目が向けられていなかったのが、今になってこうして色んなことに付随して困りごとになってムクムクと表面に浮いて出てきたんですねー。

話が飛んでしまっていますが。人間関係の一番小さな、距離の近いカテゴリーは家族で、そこでの人への接し方や考え方は自分を形作る基本であり、身近で見本になるのもそのカテゴリー。そこで自然と学んだら気づいて学ぶことで、それを外での生活に適応させるから、外に出た時に違う!とびっくりすることもあるししっくりマッチすることもある。自分の住まう環境で新たに育てる感覚もあるし、色んなものを総合してやっとこさ、自分の型が出来上がっていくんだなぁと、思い ました。

色んなことに気づいたり考えたりするのに時間がかかるし浅いことも多いけれど、自分なりのものが確立されるようにたくさんのことに触れて、感じて考えて行きたいと改めて思いました。久々に良い週末過ごせたー!!!と嬉しいので今週も頑張ります。

雪が少しずつなくなってきて、コートからそろそろ卒業したい日和!

思ったこと

平日を終えて、私の休日の過ごし方にしては、早い動き出し。晴れている!気持ち良い休日の始まりー!

テレビでは震災を振り返る特集がたくさん組まれています。もう6年経つんですね。時間の流れが速いような遅いような。

震災前の福島のイメージってどういうイメージでしたか?っていう話があって、今の強烈な震災後の印象が大きすぎるんだなぁと改めて思いました。多分、震災前のイメージはそれぞれ1人ずつ違うものがあったはずなのに、1つの大きく強烈な出来事によって、たくさんの人のイメージをガラリと変えてしまった。それが、人に対しても、向けられていて悲しく悔しく嫌な思いをすることにもなってしまうこともあって、苦しんでいる人がいるという現状。6年経ってもそういう状況がある、言っていても悲しくなる今です。

 

正直、私も今の福島のイメージ、と言われるとどうしても震災後の原発のことが先行してしまいますし、それに対する理解や知識も薄いものだと思います。でも、それについて知らないし怖いから避けようとか、除外しようとは思わないし、そういう風には思いたくもないです。

何でそういうイメージや考えになるのか??と、考えた時に、自分にとって得体の知れないものや知識のないもの、知ろうとしないものには排除因子として一括りになっていて、一端の情報や知識で全てを判断してしまうから、自分にとって排除!こっちこないで!となってしまうのかなと思いました。与えられる情報や知識を吟味選択するという大事な作業がまるっとないというか。あるがままに分かりやすいことを手に取るのが一番簡単だし、見出しの目立つトピックに目に通すだけで何となくわかったような気になり、自分の意見や考えのようにして取り入れる、ことが起こるからそうなってしまうんでしょう。これは福島の事に限らず。

与えられれば、それに対する自分の考えや想像力が欠けてしまいがちになるのかもしれません。知ろうとするから考えることもあって、関心を寄せることにもなるはず。

この日だから、とかこのことだけ、に限らずに必要なことというか、心に留めておきたいです。