かにさん記録 blog

日々の思うこと、好きなこと、考えの整理!

叶わない日

きょうの出来事

朝の出勤途中でちょっと駄々コネた年中さんくらいの女の子がお母さんと地下鉄に乗っていました(ママも女の子もなんだか眠そうだった)。ちゃんと座席に座らずに立ってフラフラする女の子にお母さんは困っていて、最初お母さんは座っていたのだけれど、女の子がフラフラしてお母さんにくっついたり離れたりしながらして立っているので、周りにも邪魔になるからと座らせようとするのだけれど、全く言うことは聞かず、何度も何度も眠くて甘えたそうな、ヒザの上に乗ろうとする女の子をいさめて、立ち上がってしばらくまた座らせようとしてたんだけれど、遂に「いい加減にしてよ!!」って。お母さんはほんと〜に困って多分思わず声をあげちゃったんだろうけど。その後、女の子は諦めたように座って数駅をねて?うなだれて?過ごしていました。

お互いにそうなるよね、って。家でやっていいことと、外でやってはダメなこと、をお母さんは教えたかったんだと思うのだけれど、朝だし眠いしお母さんにくっつきたくて甘えたい、色々やってるうちに引っ込みもつかなくなってきちゃった?女の子はそんなこと分かんないよなぁ、急に言われたって…と、思ったりしました。

仕事へ行くお母さんと一緒に過ごせて甘えられる時間は限られているし、日によってはそばにいて欲しいけれど、それが叶わない時もあるだろうし、渋々諦めなくてはならない不本意な時もあるけれど…。多分そうしながらガマンする事を覚えたり、お母さんが仕事に家事に頑張っていることを、後々は理解していけるようになるのかな、と感じました。あの女の子には今はとっても酷な時間だと思うのだけれど…!

私は陰ながらこっそり応援するしかできないけれど。あの親子を応援したいな。

 

話はかなりずれますが。

私はほぼ専業主婦の親だったので、鍵っ子に憧れを持っていた側でした。そういう子たちに比べると、親の仕事の大変さや頑張りというものを毎日毎日、目の当たりにする機会は共働きや片親の家庭の子に比べると多くはなかったと思います。

そのせいとは言いませんが、私自身の性格や感性からしても、家族に迷惑かけないようにしなきゃ、とか親が頑張ってるから私も頑張らなきゃ、みたいなそういうことも大してなく鈍感に育ったなぁ、と今更思ってもいます。親の苦労や苦悩を知らない訳ではないけれど、のほほんとし過ぎてやり過ごしてきてしまった感。

多分、普通の人が思うような「尊敬する人は親!」とか「ここまで育ててもらって、親孝行しなきゃ!」みたいなことを強烈に感じられなくて、なんて親不孝なんだろう…とも、ここ数年感じています。なんなんだろうな、この感覚…。

親自身は感じて欲しいと思っているはずだし、そういう風に育ててきたつもりだろうと思うのですが、なんというか家族としての繋がりが、私自身にとっては希薄というか、強くないというか。困った時には助け合うし心配しあうとかそういうことは当たり前だけれど、私たちは家族だからこうしなきゃ!とか、盆暮れ正月は集まるのが当たり前!とかそういう事を今まで何気なくやってきたけれど、それって何なんだろう…来ても邪魔そうな私が帰省して意味あんのかな…という、あり得ない思考になることもしばしばあって。いつまでも親がいる訳ではない事も理解しているけれど、年々、親の心配をしていく歳になるはずなのに、そうならず家から段々足も遠のいている気がするし…。

色々なことに対しての感謝とか気持ちを感じなくなっていると、人との関係も希薄になるのかな、と思うし、自分もまさにその類なんだな、と思うのだけれど、なんだかどうしてそういう気持ちになってしまうのか、自分の中でもまだまだまだまとまらなくて、気持ち荒んでるのかな、と思いながら日々過ごすに止まっている状態。

 

ものすっごい話ずれてしまったけれど、親子のことを見て、脱線しつつそんなことを考えました。相変わらず短くまとめきれない。

自分が残す足跡、という名の点

うーん。今週はもろにインフルエンザの影響を受けた仕事の仕方になりました。自分らはいたって健康なのですが、他部署や関係機関からの制限がかかり、イレギュラーな動きに。普段、そこまで机に向かって仕事する事のない職場なので、事務仕事をし続けることが苦痛でたまりません。肩凝りもひどくなった気が…!

 

本の感想を。以前載せた『本を読む人だけが手にするもの』の中で紹介されていた一冊です。

 

心が喜ぶ働き方を見つけよう

心が喜ぶ働き方を見つけよう

 

 

伊藤忠商事→自営など諸々→漁師さん&事業家をこなすという立花さん。東日本大震災後に、宮城の雄勝というところで漁師さん&事業家へ転身されたという方。雄勝の海を通じて食について学びの場を開いたり、被災地の現状を知ってもらうためにボランティアを募り民泊的な事をしたり、再び人の集まる街を作る!という事で復興に力を注いでおられます。上記の活動をしつつ、震災から1年後にこの本を書かれているというからそれまたすごい。

もう既にベースの経歴もやっている事もすんごい方ではありますが、その時々でコレをやりたい!そのためにはこうなっていよう!という何か目標になるものや、将来図があって、省みては修正してまたそれに向かってがしがしと進める行動力や、これまでの経験を踏まえた思い切り、バイタリティがものすごい。

まー何するにしても色々と腰重く机上の空論を地で行く私には眩しい。そんな私が、これをそのままやろう!!!というのは到底ムリなのですが…ただ、自分が好き!という事や力を注ぎたいと感じる事に全力で取り組む事で得られ、力をつけて行ける、経験、知識、人とのつながり、深み、幅…といったものがあるよ!と、示されていると感じました。

読み始めは、こんな事もやってあんな事もやって…と成し遂げてきた事が羅列されているようでなんだただの自慢かよ!と捻くれながらしか見られなかったのですが (なんて僻みだ…笑)。

多分時間を追って書くと、本当に色々なことをやってこられた方なので、まとまりきらないくらいなのかもしれないですが、それが全部今の活動や仕事に通じているというか、通じさせているのが素晴らしいなと。漁師さんと、事業家っていう点と点も見事に繋がっている。そうした、離れていたはずの1つ1つの点が見事に繋がって線になっているんですよね。特殊だけど個性のある、自分だからこそできる何かというものをしっかりと掴んでいるんです。

なので、やっていて無駄な事、経験して損な事はないんだなぁ…と、思うし、そう考えながら自分の幅を広げて選択肢が増やせると、繋がらないように感じる点と点も繋がって、人生もっと充実する、自分だけの何かをつかめるようになるんだろうな。

私の好きな事も、職業も、過去にやってきた事も、どこかで何かのタイミングで繋がるのかもしれないと思うと、いつ使っても良いように磨きをかけておかなきゃな、と改めて思ったのでした!

 

はー今週はもうムリだけど、早く通常業務に戻れますように!インフルエンザに負けないぜ!早く事務仕事から解放されたい!

自分って変かも、と思っている事に気づくこと

今月読んだ本から。好き嫌いないように!とは思っていましたが、興味の持ったものからなのでやはり偏りはあります。

 

平匡さんフィーバーの波に乗って何か読んでみようと思って選んだ一冊。星野源さんが本やコラムを書いていることは存じ上げていましたが、どんな事を書いているのかは全く知らず、初めて読みました。

 

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 

 友人が源さんの曲を聴いて泣く!!!という話をしていたのですが、 私には、NHKのLIFE!〜人生に捧げるコント の、星野さんが強すぎて歌う人の枠よりも「面白いお兄さん」枠で収まっていました。(ゴメンなさい…。

コラムというか連載がぎゅっとなった文庫本をKindleさんで。元の連載記事自体は7年前のもので、なんだかゴールデンタイムに進出して欲しくない、深夜枠のマイナーな番組を見ている気分でした。面白いお兄さん枠は間違いなかった!

人と自分の違いについてとても客観的に書かれていることが多くて、私もこういうところある!とか、そう思ってたの自分だけじゃないのか!という同士を見つけられたように感じる部分が多々ありました。いつも感じている気持ちや、主観的な感覚を客観的に一緒に見てくれているような、そんな感覚。

あとは、星野さんの日常生活力のダメっぷり(と言ったら失礼ですが)に驚き、これだけバリバリ仕事をこなす星野さんが完璧人間なのでは!と思っていたけれど、そうよね、やっぱり人間だもの。と勝手に思ったり。

それから、客観視できていることに加えて、包み隠さずにそれを書けるって物凄い事だとも思いました。自分のダメなところをダメって分かっている事が大事だし、自分の今の姿をちゃんと捉えるって事が必要なんだな…とも感じました。

 

あとがきのテンションも私の好物でしたが、その中から少し抜粋。

「なにげない日常の中に素晴らしいものがある 」どや顔でそんなことを言う人は苦手です 。 「なにげない日常 」の中には 「なにげない日常 」しかない 。素晴らしいものなんてない 。その中から素晴らしさ 、おもしろさを見いだすには 、努力と根性がいります 。黙ってても日常はおもしろくなってはくれない 。見つめ直し 、向き合って 、物事を拡大し新しい解釈を加えて日常を改めて制作していかなきゃならない 。毎日をおもしろくするのは自分自身だし 、それをやるには必死にならなきゃ何の意味もない 。

ー文庫版あとがきより

 

日々何かに新たな発見しようという気持ちや人生楽しもうって気持ちの有無によって、同じ時間をすごしていても全く違う結果になるものね。楽しそうな人って、確かにどんな時でも楽しそうだし、目の付け所が違っていて色んな発見や違った見方をしている気がする。それから、流れる時間がそこだけ全然違って、余裕のある空気がふんわり流れている人っているけれど、そういう事なのかなぁ、と。うまく言えないけれど、思考や気持ちや行動って色んな事に通じているなとしみじみ感じたのでした。

 

うまく言えない事が多すぎてまとまらないけれど、そんな感じ。今日こそは少しまとまるかと思ったんだけどなー!上手い文章を書けるように日々ここで練習させてもらいます。

積み重ねること

いやーインフルエンザ、すごいですね。大変な猛威を振るっていて私の職場もバッタバタです。パンデミックとはこのことなのですね。

ということで今日はいつもよりは早めに帰宅。食事も外で済ませてゆっくり過ごす!と決め、ゆっくり明日の準備をして、いつもは見られていないケーブルテレビでたまたま見つけたONE OK ROCKのドキュメンタリーを見ました。そう言えば最近、インスタで何やら話題になっていましたね。

内容は、2年半ぶりのリリースとなった新しいアルバムのプロモーション撮影や、今までのライブの話などなど。ものすっごく楽しそうにのびのびとした雰囲気で、音楽を楽しむということはもちろん、これまで頑張ってきて、失敗もたくさんしてきたけど、それを経験として色々積み重ねて今があるんだ、色々な人に繋げてもらってここまで来られて感謝している、ということを話されていて、いいなぁ…と、素直に思いました。今までにも色々な人が同じような事を語っているのを見ているはずなんだけどな…何故でしょう。

ボーカルのtakaさんに、今既に人気もあるのに日本語の通じない世界でわざわざ勝負するのはなぜか?みたいな事が質問されていたのですが、以下がその答えでした。

「人生一度きりだからね」「今を精一杯生きる、それに尽きる」

とのことでした。バンドってもちろん一人でやっていくことではないので、共通意識や目標がなければ同じ高みを目指すことって難しいだろうと思うのですが、それを「一緒に目指そうぜ!」と、お互いに上へ引っ張り合える関係の仲間ということなのだと思います。

今の時間や環境が有限であることをちゃんと分かっているからこそ、その中でどれだけのことができるのか?!というやれるだけやったろー!と、自分たちの出来る最大限に力を注ぐ、ということなのかな…。うまく言えないけれど。

叶えたいと思うことには、とにかく挑戦したりそのために動こうとする事が必要だし大切で、そうすることで少しでも近づいて行けるし、それを見ている周りも魅力的だと思う人には力を貸すし、一緒にやってみたいって思いますよね。それってどんどん派生していって、結果として人が人を呼んだり、素敵な出会いや仕事を運んできてくれる事になるんでしょう。

私もそんな仲間に出会いたい!そしてそんな風に人と人を繋げられる人になりたい!と思いました。

 

Nicheシンドローム

Nicheシンドローム

 

 今更ながら、この間TSUTAYAでレンタルしてきたCD。docomoのCMで使われていた「Wherever you are」と、羽生くんが試合前に聞くという「完全感覚Dreamer」をどおぉぉしても聞きたくて。

去年のRSRで初めてライブを見たのですが、オープニングで「スッゲーーー!!!」となったはいいけれど、その時の熱が続かず今更に。少し流れていた、新しいアルバムの曲も素敵な感じだったのでチェックしようかしら、と思っております。

 

そう言えば、もう明日で1月が終わってしまうんですね。早いなぁ。早く冬終われ!早く春と夏来い!と思うけれど、またすぐに季節は繰り返して、すぐに同じことを思う日が来るんだろうね。

今さら始めたこと

本について記してみようと思います。

今までも、ブックメーカーに登録はしていて、たまぁ~に読み切っては「読んだ本」をポチし、読んだ本が多くなるということにフフフ…と自己満足にひたりつつ、気が向いたら感想を書く程度でした。そのたまぁ~に読んでいたのは主に小説で、逃避をこめた、別世界へのトリップ的な意味合いが大きいもの。そして一度読み切ると「はぁ~楽しかったぁ…」とたまぁ~にしか読まないのですぐにおなか一杯になり、次の読書へは続かないのが常でした。

中に出てきたキーワードから興味を持って別の本を読もうとしたり、関連作品や他で似た作品を書く作者を検索してみよう、などということもなく「『本を読む私カッコいい!』なんて思ってないんだからね!」を装い思っていた、極めて痛くて残念な奴!自分で書いていて相当恥ずかしい。そして、何よりも「本にかけるお金ってもったいないな~」と文庫本1冊買うにも躊躇していたような人間で「その中身の無い飲み会代の数々の方がよっぽど無駄じゃ!」と、今は心の底から思います。いえ、飲み会が悪いわけではないんですけれどね、私の投資の仕方の問題です。

帰省のたびにアホらしさが増していると感じたアネの私へ、私の弟はあきれ返って「とりあえずこれ読んだら…」とkindle版の「この世界の片隅に」を差し出してきました。話題の本(マンガ)からでもいいから何か「読む」というきっかけを、と思ったのか、とりあえずマンガ位なら読めるだろ、これ読んで色々考えてくれよ…と思ったのか。「この世界の片隅に」は私でもすぐに読めたのですが感想は割愛。

その後、また別件で色々と話をした時に、要約すると「かにちゃん(私)はもっと勉強した方がいい。ものを知らなさすぎる。とりあえず本を読め」のような事を言い放たれて「やっぱりそうだよねー…だって弟の話すことでへぇ~って思うことあるけれど、それにすぐに反論したり意見したり、自分の考えを言えるだけの中身がないもんな~私が言えるのは弟の口の悪さと身なりを正せることくらいだな」と。元々頭も良いし本の虫な弟ではあったけれど、たくさんの本を読むことで得られる知識や経験やたくさんの視点を積み重ねて、引き出しが多くなることで、より厚みのある自分の意見や考えを出せるようになっているんだな、と感心しながら自分の中身の空っぽさをむなしく感じました。

そして、色々と勉強しなくては生き残れないなと思った時に、まず自分は何から勉強すればいいのか分からない…と広野にポツンと立たされた気分になり、本当に中身のない日々を送ってきたな…更に撃沈。

そこで、弟からオススメされたのがはせ おやさいさんの「インターネットの備忘録」。その中で、新社会人についてだったり、レシピ、書籍…色々と書いてある中で、日常を切り取って書いてあるのだけれど、なんて楽しい面白い文章だろう…と読み漁りました。そして、そこから飛んで飛んで飛んで、「本の読み方」について書いていた方(探しきれなかった)が紹介していた「本を読む人だけが手にするもの」に行きついたのでした。 既に感想ぽいものは記事にしているのですが、これを読んだことで「本、読もう…」と改めて後押しされ今に至ります。

本を読む人だけが手にするもの

本を読む人だけが手にするもの

 

 

 35歳ではないけれど。

35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画

35歳の教科書―今から始める戦略的人生計画

 

 自分がこれからこの年になるまでにどれだけの事ができているか?私には全くなかったことで、考えなくてはならない将来の事。漠然とした「将来」を描くのではなくて、今の自分と今後の具体的になっていたい自分のために何が必要かを改めて地に足をしっかりとつけて考えていく必要がある、というかそうでなくてはならないと感じた一冊でした。それから、その求める答えには一つ一つに絶対的な「正解」があってほしいと思うけれど、自分なりの納得できる答えを見つけてく、考えてそれを導き出していく事が必要。仕事も、自分自身の姿にも、人付き合いにも然り。自分が自分らしさを見つけていくことは、納得できる姿を作り上げていく中で積み重ねられて、生きていく自信や個性が構築されていくもののようです。自分が自分で考えた答えをしっかりと持つために、色んなこと知っておく必要があるし、答えを出せる準備を常にしていることが大切。というわけで、体験と経験と知識を日々入れて、整理して、出していく。その繰り返しなんですね。

 

今まで、読んだとしても満足して終わり!の繰り返しだったのと圧倒的に量が少なすぎてひきだしもできませんでしたが、整理しないまま、溜めっぱなし、入れっぱなし、ぐちゃぐちゃで引き出せない状態になっていたのを、自分の中に取り込んだものとして、しっかりと整理整頓しながら、必要時にはすぐに取り出して使えるように積み重ねていきたいと、思っています。なので、読んだ本について自分が思ったことや感じた事も、整理する意味で短くても感想を残していきたいなと、今は思っています。できるだけ、読んだらすぐに書けるように!

そして、この長ったらしい文章がより短くて無駄なく、話題が脱線せずに表現できるようにもなればいいな~とも思っています。

夜更けの珈琲会議

こちらに出てきたオトンからのお誘い。喫茶店で少し話したくらいだけれど、すごく良い時間だったな~なかなか、今までにない父娘の時間。そもそも外で会って飲食する機会となると、父母+子達で1セットというまとまり以外ではなかったので新鮮。今度は飲みに行こうな、って言われたのもちょっとうれしかった。

そしてなんとも、吐き出すという感覚が久しぶり。友達にいうのとまた違うんだよな。

血のつながっている間柄だからこそ話したくないこと、話せること、話しづらいこと、言っておきたいことがあるとしみじみ思った。

私の感覚を評価される時って、私が外から得てきたものに対しての両親の評価は分かれる。かなりの確率で。大方はオトンが評価してくれるけどオカンは評価しない、ていう図式。オカンには結構な勢いで否定されたり過剰に評価されたり、私の抱える感覚がそんなにおかしいのか?居る世界がそこまで歪んでたりひねくれたり汚いのか?と思うこともあるけれど、今日はオトンに、同じ所属・括りから見たとしても「それは違う」と首をひねることがあるんだよ、と示されたことで本当にホッとした。私自身に、まだマシにまぁできてるんじゃないの?、くらいのレベルの部分が存在していたこともそうだけれど、それなりに社会人として生活を営んで来られたことに対しての自信や評価をしても良いのかなと。

人間、自分が良いと思っていたことをダメと言われるとヘコむししょんぼりもするけれど、いつまでも庇護下にあって自分のできることできないことを等身大で見つめることができない状態でダメな子と言われながら過ごし、ある時外に放たれて感じる、良くも悪くも存在する絶望感が大きくなると途方に暮れちゃうよね。私はそんな感覚を、一人で暮らし始めてからようやっと持つようになっているんだよな。親離れ子離れの問題にもなるのだけれど。

今はもうそこまで唸るほど思い悩むこともなくなっているけれど、一時本当にそればかりに思い悩んで、今までやってきたことが本当は自分が自分じゃなく、良いように取り込まれて自分という人間が動いているような気がしていた時期があった。その時は「毒親」とか「母の支配云々」みたいなことをGoogle先生に尋ねてみたり本を読んで自分なりに何とかしようともがいてた。そしてこうなったのはオカンたちのせいだ!とか涙ぐみながら読んだ時もあった。今思うとそこまで追い詰められてたんだなぁ…物凄い過去のような感じがしている。ただまぁそれもここ1年くらいの話なので最近なんだけれど。

 

母と娘はなぜこじれるのか

母と娘はなぜこじれるのか

 
母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)
 

「呪縛」っていう書き方が良いか悪いかしっくりくるか来ないかは、人によりけりだとおもうけれど、ふんわりした毛糸でクルリンと包まれる程度の「縛り」と、ロープウェイの鋼鉄ロープでグルッとされる「縛り」というものはやっぱり違う。「縛り」を毛糸か鋼鉄ロープか、どう感じるかは各々の感覚なんだろうけど。ただ、それが傍から見たときに「異質」であったり「なんかちょっとおかしい」っていう部分があればそれはやっぱり「どこか違う」「変」の括りになるんだと思う。変に感じなかったりすることが、やっぱり「変」だし縛られているってことなのかな、という理解をした、気がする。

結果、過剰な親はどこまでも過剰な「毒親」ってことになるから上を見ても下を見てもキリないな、と読んでいて感じた。要は自分が「なんか違う。変。生きづらい」ていう感覚に気づいたなら、何年と生きてきて培ってきた自分だけの感覚にも目を向けて信じることが大事だと思った。ただ、「違う、変」な関わりや関係性は全部否定するのではなくて「理解する」って形で、自分が辛くならない、嫌にならない距離感でうまく付き合っていくことが大事なのかもしれないと思う。少なくとも、私の場合は、受け取る私としては「あなたのためだから」「そうする事が愛情だししてあげたい!」傾向が果てしなく強いな〜って感じる事の多い、奉仕精神に満ち満ちたオカンなので、そういう付き合い方や頼り方がお互いのためには良いのかな、と今は感じる。

自分の感覚が育てられた親からもらった、間違いなく正しいものである!っていう事、完璧なもの、っていう感覚が強かった分とても私は苦しかったなぁ、と今更ながら強く感じている。親が完璧に清くまっさらに正しいなんて、ンなわけもちろんないのだけれど、どこかで自分が気づくきっかけやそういうことを感じる機会がないと、物凄く一方的で身勝手で歪んでいくんだなってことが分かった。

私の場合は幸い?にもオトンときょうだいがいて話を聞いてくれるし、私と同じ感覚で母に「うーん…」て思う部分があるっていう感覚を持っていてくれているので全部を一人で抱え込まずに済んでいるけれど。

でもオカンはオカンで、自分の親との関係の中でクリアできなかったその時々の家族で乗り越えるべきだった問題とか、その中での関係の構築とか、それらについてのつまづきがあるから、どこか過剰だったりして調節できなかったり上手くいかないと悩んでるんだろうとも思う。そして、それを消化できずに今日に至っているんだろうな~と。まぁ悩んでいる自覚や意識があるかはわからないけれど。たぶんそういう事なんだろうと思う。

私がこう思うってことは、一番近くでビシビシと日々受け止めているオトンはもっと大変だろうなぁと思ったんだけれど、それを「大変じゃないよ。今まで本当にたくさん助けてもらってきてるし、感謝してるんだよ」って言えるオトンで安心した。私がオカンから聞かされる日々のオトンはどうしようもなく勝手で、人の気持ちがわからん感謝のない野郎(完全に否定はできない箇所もあるが)、なんだけれど、オトンはオトンなりに理解しようとしてるし受け止めようとしているっていう事、もう少し分かってくれたらいいのになー、オカンこそ実はいろんなことに囚われて、見えなくなってる事多いかもしれないんだよーって、気づいてほしいな。今は難しいだろうな!

 話したことはこれに限らないので話がなんだか一方的で繋がっていない感じもするけれど。私にはすごく必要な時間だったし、もうすこし早くにこういうことを話せたら色々と違う結果が見えてたのかなってぼんやり考えもしたり。あとは、話し合えたり、分かり合える間隔は似ているので思い出してちょっと泣きそうになったりもしたけれど、今の自分の判断は今後につながることだと信じたい。

リンクする音

 レンタルなのですが聞いてみたいと思い、手に取ったRADWIMPS

借りたのは、ご本人アルバルではなく映画サントラ盤の方。すんません、ミーハーで。しかもかなり遅れを取ったミーハーで。

おだやーかでじんわり優しい響きの曲ばかり。例外もあるけれども!

悲しくなるようなぎゅーっ切なくなるような、それでいて爽やかさも忘れません、て感じのものが多い印象。

映画の主人公たちが学生、青春時代真っ只中を生きているからということもあるのかな?変にわざとらしい希望とか明るさはなくて、だからといって泥臭さや陰気臭さが意図的に排除されているわけでもなくて。こうあれたら幸せだろうな、って微かな望みを時々忘れたり思い出したり繰り返しながら細く長く持っているような。感じ。

…語彙と表現力がなくて全くもって上手く説明できていないけれども。

 

曲も映画も互いに寄って行ったらこうなった!というのがあの作品なのかなぁ、と曲をしみじみ聞きながら感じたのでした。

まだやってるかな、もう一回くらい行きたいな。

 

 

君の名は。(通常盤)

君の名は。(通常盤)