かにさん記録 blog

日々の思うこと、好きなこと、考えの整理!

フィルター付きカゴの外から知る世界

今日の帰り道、地下鉄一本逃してしまい、「遅くなったし疲れているのについてない…」と地下鉄のしっぽを見送ったところで、嬉しい出来事が!

今週のお返事です - インターネットの備忘録

お返事をいただいて、何だか中学の時の文通を思い出しました。お相手はもっともっと、憧れのはせさんなので、お返事いただけるなんて恐れ多いのですが…!!超絶嬉しいです。ありがとうございました!

 

自分の書いた何かに対してアクションがあること、肯定的だったり賛同してもらえること、議論できる事ってとても嬉しいです。

そして、私のしてきた経験や考えや感性を知ってもらい、客観的に違う目でみてもらうことで、また更に教わる事が沢山あるなぁと思いました。身の回りでそういうことについて意見を交わせる友達や家族がいれば、あまり必要ないのかもしれませんが、私は友達や親になんとなく言えないことを綴る場になっていて、我が家の、私のフィルターって如何に?!を発信しているところもあるのかも、とふと思いました。

自分の住む世界の外から見た感覚や「普通」がどんなものか、私の世界が世間からかけ離れていないかをとても気になっているというか、間違いやズレがあるのかないのか、直した方が良いことなのか、それとも個性や特性や私のいは環境のものとして良いのか…。

正しいっていうことの芯はブレないかもしれませんが、肉付けされる中での偏りや厚みによる寄り具合は各々異なっているし、それぞれで良しとされるその具合も異なります。住む世界や環境で見方が違うということを知らないことが怖いなぁと、ものすごく当たり前のことを実感して、とりあえず手足バタバタさせている、今なのかもしれません。

知らなさすぎると思っていたけれど、知らないということを知れば知るほど、更に知らない自分の浅さみたいなものを知り、まだまだ甘くて及ばないからと、考え改めようと思えるのかもしれないです。

 

うーん。

そういえば、もう2月が終わり!ここ近年の中ではあっという間に過ぎて行った感覚でした。冬のウダウダな(私の中では)この2月が、季節の中では一番苦手で山場になる事が多いのですが、今年は色んな事を考えて始めたり、意図せずそうなることもあって、いつもと違う心持ちの日が多かったです。忙しさがあっても、新鮮さの中に気合が何割か増しになれていたこともちょっと嬉しい。いろんな事が、ちゃんと春に向かっているなと感じる最近です。

手に取る答えの綱渡り

最近の日記を読み返して見て、何だか悩んでいるようで物凄く愚痴っぽくなって嫌だなぁ楽しくないというか気持ち良くならないなぁ…と、思いました。これを晒し続けるってどうなんだろうか、とも思うのですが、その時の自分の事をいつでも自分で直面化するには手頃な気もするのでそのままに。

 

今年こそは色んな本を読もう!と新年に意気込んだは良いものの、給与的には書籍代を大してかけられないのにワンクリックの便利さを利用してKindleさんをポイポイと購入した結果、Amazonからの請求が…。読み終わったら次!と気になるものや話題のものを漁るのも1つかと思っていましたが、話題の本くらいなら図書館に行くとかする方法を取るのも手だと今更気づきました。せめて一ヶ月の金額を決めよう…。

 

 今読んでいる本です。すごく丁寧で分かりやすい言葉で、語りかけられているような気分になります。羽生さんの言葉は優しいですね。そして、芯がある!と言うのとは少し違って、心が整っている、という気もしました。人柄なのかな?文章や言い回しにもそういう雰囲気を随所に感じます。

 勝負、とか選択、といったことは、どんなに小さかろうが日常でもしていることで、その中で日々選んだ道を自分たちは歩いているし、成るべくして成ったことなんだ、と。何気なくしていたことですが、日々無意識に何かに迫られていたり、結局は自分の責任で何か選び取った積み重ねの今が、この私なんだよな…。何気なくって、どうでも良いことはどうでも良いかもしれないけれど、大事なこともどうでも良いような選択をして来てしまっていたのではないかな〜と、思い改めたくなりました。

ちょっと救われた?のは、

思い出を美化するのは洒落ているかもしれないが 、自分が選ばなかった膨大な量の選択肢のほとんどは 、 「選ばなくてよかった選択肢 」のはずだ 。今は情報があふれるほどあるため 、選ばなかった選択肢に関しても多くのことを知ることができる 。そのぶん 、我々は後悔しやすい環境のなかで生きているのだ

ー過去に引きずられて判断を誤る

ということ!

知らない幸せと、知っている後悔。どちらの方が結果的に良いのか分からないし何とも言えないのですが。知らなくても良かった、というよりは選択肢にすら入る事のなかったこと、って思うことも必要なのかもしれません。自分の生活や日常でほ必要のなかったこと、としてね。それなら選んだ方を必死に良くしようともがいて掴んだ方が良い、と思いたいしそういう良い選択をできているんだから別にいいじゃない、と思える自分でもいたい。そして、そもそもの判断が間違っていても、気付いた時からまた軌道修正できるようなバイタリティは持っていたいな。

じめじめして苔が生えてくるような気持ちの時や、苔すら生えない毒づいちゃう時もあるけれど、そこにとどまっていたいとは思わないし、自分のできることで、やっぱり最善を探していたいなぁ、と思うのです。

まだ読み終わっていないですが何度も読み返して心に刻んでおきたい言葉がたくさんです。

 

はー二月はあっという間でした。春ももすすぐ!冬と春の狭間の今、結構好きです

気持ちを乗せて

今週はいつもより長めの連勤が続いたのですが、今日はお休みだったので意気込んで出かけたらまさかの大粒の雪模様!雪まみれで歩くはめになり…寒かった…。春は近づいていますが、今はまだ冬の寒さとの駆け引き中のようです。

 

今日は誕生日のプレゼント選びをしてきました。贈る相手の普段の事を思いながら、あそこにあったあれが良いかも!と頭の中にある引き出しを駆使しあちこち見て回りました。もーう何が良いのか頭を抱えつつ、金額も私のお財布の中身と相談だけれど「お!」となりそうなもの…。その人のことを思いながら選んでいるつもりではあるし、喜んでもらえたらなぁと思うのと、「こういうの欲しかった!」とまで言われたら最高ですが、なかなかそうもいきません…。難しいなぁ。

物に思いを込めると言う意味でプレゼントはあれこれ悩むわけですが、日頃から多分、見るもの、目に入ってくるものの中で「これはあの人が喜びそう」や「これは好きそう」というアンテナがしっかりあったり、それに近い働きがあったら「これはここにあるかも」とか「じゃあ似た雰囲気でこういうものが好きかも」と考え至るのかもしれないです。ということは、私の中に入ってくる情報の中で、私がそれを見ながら「あの人」や「その人」を思い浮かべる頻度や機会が少ないためにそういうことが起こるのかもしれない、と思いました。だいたい休日の、ウィンドウショッピングで巡り会う機会が多いとは思うので、ボンヤリはしているかもしれませんが、もう少しアンテナ張っていても良いのかも…。

うーん、人の事を考えてって、どれだけやっても思い足りないのかもしれないし、その人の思う100パーセントにはなれないけれど、寄り添おうという気持ちは持っていたい。その人ならどうか?って事もそう、他から考えてみたら時にはどうか?って事もそう。外れる事の方がやっぱり多いのかもしれないし、分かり合えない事の方が多い事もあるのかもしれないけれど、目や耳の持ちどころは多いに越したことはないはずと信じたい。そして、寄り添い続けたい人には、やっぱりそう居られるような日々を送らなきゃかなわないのかもしれません。

 

で、結局はプレゼント選びはしてきたのですが、長年の手強く厳しい相手なので何というかは分かりません…。でも気持ちは伝わるといいな、喜ぶかなー!

「女子」ってなんなの。

今日はプレミアム フライデーとか何とか。私の職場は関係ないですが…!私がいなくても仕事として困ることは何らないのですが、そもそも人数いないってことが困るので休むのははばかられます。

 

最近、自分が荒んでいるなぁと思うことがしばしばあって、感謝とか人の気持ちとか、ここにも記すことが多いのはそのせいなのかもしれません。すごく意識しないと自分にしか目が向かない位に、切羽詰まっているようです。些細なことでイラついたり、前ならきにしなかったどうでもよいことでムカッとしたり。

というのも、職場の同僚らが、彼がいながらコンパ三昧で「良い相手探さなきゃ!」って言っていることとか、とにかく数々のコンパへ行き、出会った男の子らのことをあぁでもないこうでもないということや、女子力アップ!って言いながら数々のダイエットをとりあえず試してることとか。とりあえず、今の自分にはもんのすごおぉぉくどうでも良くて、「そうなんだー」と右から左に聞き流しているはずなのに「毎日同じ話して飽きないな〜」と、耳についてイラリとしてしまう私もくだらないな〜と、思って日々過ごしています。漫画やドラマで見るような女性図がすぐ近くにいて、「うわーいわゆる、女子ってこういうことか!女子!」の、空気をビシビシ受けているここ最近。何かのきっかけで私もここにのまれるてしまうのではなかろうか、と恐くもなるのです。パートナーがいたり、そういう生活がキラキラしていて、それによって自分の日々が輝くものになることはもちろん、わかるし素敵なことだけれど、それが何のためにやっていることなのか、よくわかないままにそれに染まりたくはないなぁと、強く思いつつ、もしかしたら、無邪気にそういう話をしていてただ楽しい〜という感覚で居られることを羨ましいとも思うのかもしれないです。でも、楽しいだけ、だととてもつまらない人間だしそんな自分にはなりたくないと思うから、そこへは行きたくない…相反するけれど、どこかで折り合いをつけて、前に進める策を自分で見つけなくてはならないんだろうけれど。いちいち冷静にならることはなくとも、考えられる気持ちの余裕や、あちこちに考えを巡らせられるだけの引き出し、欲しいです。作らなきゃね。

春の散歩道くらいのんびりと

ここ最近、本当に毎日あっという間に過ぎていきます。これが良いのか悪いのか。流れに乗るだけで頭も気持ちも満杯になっていないか、振り返る必要がありそうです。タスクはこなせていますが、降りかかってくるタスクもまた同じだけあって、追いかけっこになるだけで、同じところをただグルグルとしていて前に進んでいないような…。

 

先週お話ですが、今の私に必要な考えと見方と学び!はせおやさいさんの記事からです。

「人はもともと欠けるところのない存在である」 - インターネットの備忘録

ちょっとくらい失敗したり間違えたり、そんなのしたってぜんぜんいいし、失敗に怯えることでその人の良さが発揮されなくなるのは、全体の幸福度を下げてしまう。もちろんリスクヘッジは必要ですが、そういう阻害要素はなるべく排除して、じゃんじゃん失敗してもいいよ、きっとあなたの得意なことは、どこかにあるよ、と信じて待つ、気長に待ちながらも、自分にできるところはサポートし、本人の離陸を見守る、という関係性を作る努力は、決して無駄にならないし、無駄にさせない、という強い決意を新たにした今日このごろなのでした。

これは、私含めしたいそれ!!!上になればなるほど自分の中で失敗したらダメ!の風にビシビシさらされて、そう見られているんだなぁ…と所々で感じる日々。

 

私が「認める」というと偉そうで語弊があるのですが…自分のされてきた、してきた経験とも重ねて考えてみました。コーチング、仕事で関係ある分野ですがちゃんと勉強をした事がなく…オススメされていた本を読んでみようかと思います。

まず、仕事面でも、学生時代の部活動なんかでも考えてみたら、誰かの何か「お!ここ良い!」と思えるところを見つけて引き出すって、相当に労力(というとあまりしっくり来ないですが)のいる大変なことだなぁと思います。自分でも気づいていないかもしれない能力を、赤の他人が見出すんだから、時間がかかっても「ここ良いじゃん!」って発見してくれる人って本当に貴重で、自分のことを普段からよく見てくれている人なはずです。

今考えてみれば、私の大学時代の言語研究会の先生がそうでした。さりげなく何気なくかけてくださる言葉が、良い意味での肯定感をもたせてくれる温かさのあるものばかりで、本当に私たちの事をよく見てくださっていたんだよなぁ…と、しみじみしながらこの記事を読みました。その先生は、直接的に「ここ良いじゃん!」などと言う先生ではなかったですが、次に次にと進めさせてもらえる感覚がありました。あれこれもと、チャンスをたくさん与えてもらい、出来たら一緒に喜んでくれる、失敗も「そんな事で死ぬわけじゃないんだから〜同じことしなきゃいいだけ!」くらい寛容で、のびのびのび、と両手足いっぱいに広げて奔放に先生の広ーい器の中で転げまわっていた、そんな感覚です。

仕事とまた部活動は責任感や対外関係やら色々なものの重さがまずは違ってくるので質が異なるものではありますが…。

そう考えると、見守られている中で背中を押してもらい、信じて任せてもらえることの嬉しさって大きいですよね。その中で自分の身の程を分かってきたりするんだとも思います。そして、あれこれ考えて発想を巡らせたり、ピンとくる何かを引き出せる機会を作るための準備やヒントを探し当てる、という、これってものすごい…やっぱり大変なことだ…。でも、その人がどこかに属して生きて行くとなった時には必要な、自分の良さや武器はあればあるだけ良いし、誰だって周りから必要と思われる人や、役に立ちたいと思えば、どこかに自分のできることや価値を見出したい、はず。それを見つけることに一朝一夕さは必要なくて、むしろ人によってはじっくりゆっくり温めて孵化させるくらいの感覚でもいいのかもしれないですね。

受け止めること、気長さ、本質を見極めること、寛容さ、見守ること、たまに軌道修正。必要事項?になるのでしょうか。最初の話とズレてしまった気もしますが。

最近組み始めたチームでもなかなか噛み合わないところがあったり、昔からの習慣で何気なく続けていたけれど結局は皆が無理して頑張らないと出来ない、のような事が多くて悩んでいたところでした。その中にはそれぞれの良いところがなかなか生かされずに来てしまったことが要因として大きいのかなぁ、もっと良い形で還元できるためにも、チーム内のそれぞれの良い個性って見つけたいし、そうしたらパフォーマンスとしての質も上がるはずなのになぁ…と、やっぱり改めて感じました。

めちゃくちゃタイムリーに、ポンと舞い込んで来た記事に感謝でした。まずは改めてよくよくよく、皆のことを観察して、自分は余裕と寛容さを意識して!今一番足りないものですが、少しずつ蓄える努力をしなくてはね。寛容さって、私のなかでは、春ののどかな昼下がりのイメージです。

「やる」の集積

糸井重里さんの言葉って、さすが端的でハッとする言葉と表現がたくさんです。

ほぼ日刊イトイ新聞 より

ほぼ日刊イトイ新聞

「案ずる」だけじゃ、なんの意味もないよね。だけど、あちこち「案ずる」だらけって感じだよね。「言う」より「やる」の集積が、その人なのにねー。

ほぼ日刊イトイ新聞 より

私の最近の、私が発する言葉への違和感がこれでした!まさに!自分で言うのも悲しいですが「口だけ人間」とでも言えば良いでしょうか。「心配だよ」「大丈夫?」って、最近の私が言うと、都合良い言葉になっちゃうなぁと、後ろめたさのようなものが表されていました。

思うだけ言うだけって一番簡単で、口出しだけでもそれらしく取り繕えたような気分に陥ることもあって。気持ちは果たしてそこにどの位、存在しているの?そもそも本当にそう思う気持ちってある?!と、我ながらなかなかにレベル低いことを自問自答して、心の奥底の空っぽに恥ずかしくなることもしばしば。

多分やっぱり、「そう思うことをしておけば良いだろう」「関わりが面倒。余計なことに巻き込まれるのはゴメン」というズルさや、相手の立場から見た大変さやしんどさ、辛さを知ることをしなくてもいいや、関係ない!という淡白さ、というか薄情さ、上手いこと言い方を変えれば自己防衛、にもなるのかもしれないです。でも…必ずしも親密さが要されはしなくても、できることで自分の気持ちを表して行動するから、その気持ちと行動を見て、周りはその人を信用するし、自分のために行動してくれる人がいるってことは嬉しい。人として、口だけより、自分の時間や労力費やしてくれる人の方がそりゃそう思えますよね、そうだよね。周りを見られる目や余裕がある分そうできることの幅は広いだろうし、そうありたいと思うので、この言葉、心に留めたいなぁと思いながら読ませていただきました。

本当の気持ちの余裕ってどうやったらできるのかなぁ、とこういう記事を見ながらウンウン言う日々です。

センサー付きトイレの話

 

NHKを見ていたら、へーというニュースが。

 

トイレの空き状況が、スマホやPCでわかっちゃうというシステムが開発されたらしいですね。

ドアに取り付けたセンサーで、個室に人が入っているかどうかが分かるとのこと。仕事の効率化、働き方改革にも一役買う働きをしてくれることが見込まれているとか。デモ画面らしきものの中には、個室に入っている時間が秒単位で分かるようでした。

 

大きなショッピングモールや、デパートなんかだと、待ち時間がないフロアですぐ用を足せるというのは嬉しいし、子ども連れのママさんには、子どもたちにトイレをガマンさせたりせずに入れることは便利なのかな〜と思ったのですが。あとは、不自然に長い時間入っていたら、体調不良で動けないのか?!とか、犯罪に巻き込まれているのか?!そういう万が一の時に駆けつけられる、安心にも繋がるツールになるとは思います。

ただ、オフィス内のトイレに取り付けるとなると、ちょっと落ち着かない気がして…。「どこのタレベエが今手前の個室使っています!」なんて身元がバレるとかそういうことは勿論ないでしょうが、効率化とはいえ、見知らぬ誰かに自分の用を足している時間が知られちゃうとかなんだかなぁ…と、思ってしまいました。トイレの一時くらいボヤッとさせて欲しいな〜と思うのです。

 

私自身、諸々技術の発達のすごさは普段そこまで気にとめて生活はしていません。ただ、どこにいても誰かが自分の所在を知っている状態にいられること、そこにかなりの情報が詰め込まれていることを考えると、改めてその凄さと、一度握ったら手放せない怖さも感じます。例えば、ICカードで改札を通った通らないや出退社の時間がわかっちゃうことも、GPSも。そしてSNSがその代表的な例なのかなと思っていました(と言いつつ、自分もしっかりどっぷりつかっているのですが)。でも、SNSは自分から積極的に発信することで、生活圏や個人的な情報もたくさん発信できてしまうということから、使っても使わなくても良いツール。やりたければアカウントなりIDなりを作ってそのコミュニティに参加すれば良いものです。意図しない、ICカードGPSも使いたくなければ切符を買えば良いしGPSも接続せずに使うか、極端な話になって現実的ではないですが、もういっそのことスマホやケータイを置いて出かけちゃえば関係なくなってしまいます。

 

でも、仮にそこから離れたとしても、トイレにはどこかの誰かに自分の所在が見られる状態になってしまったら、なんだか……囲われる枠が多いな、やっぱり落ち着かなーい!と、思ってしまうのです。いちいちどこかに所属している感じというか。それを強要されている感じ。うーん、なんといったら良いのでしょう…これ伝わりませんね!浅いところですごくひねくれて物事を考えているので、適切な言葉が出てきません。

 

トイレのセンサーごときですが、見ながら、書きながらそんなことを思いました!トイレも奥深い時代になりましたよ。多分。